情報のある側面

ネットを中心としたビジネスが、既存ビジネスを根こそぎ「なぎ倒し」ている昨今。既存の会社はどうやって生き延びるのか、業態を変えるのか、いやいや、規模縮小でしのぐのかなど、いろいろと辛い側面が見えてくる。

ネットはネットで、さまざまな情報を生み出し、流し始める。以前ならとても苦労をして手に入れていた情報も、いまや検索エンジンがあれば、結構な情報も、いとも簡単に手元でつまびらかになるご時世。結果として「情報そのものだけ」では金が取れない、金にならない世の中に。

 

ではそうした状況の中、どのようにネットを中心としたビジネスが回っているのかと言う事を少し考えてみたところ、ひとつは、「情報が生み出した側面」によって成り立っているところではないかと。

 

分かりやすいところで言うと、金融業は究極の情報業であり、数値が前後したことで、予定値との差額が振り込まれたり、口座から引き出されたりする。自分の銀行預金においても、それをネットから「数字を操作」すること(なにかを買い付けて、相手にお金を振り込むこと)で、実際の品物が手元に届いたりする。

ちょいと変わったところで言うと、音楽や映像がネットで流れているけれど、やはりネットごときで手に入る音や映像は迫力に欠け、やはり、コンサート会場や映画館という設備から得られる体感を通して感動を得ることに対価を支払っていたりする。

 

少し前に、ネット企業が「体験」といったキーワードを拾い出してきた、まさに情報が生み出す二次的側面にこそお金が支払われるということ。

だから、製品を売るというより、当然サービスに注視する必要があり、製品を通したサービスが充実している方向へと社会はなびき始める。昨今の複雑な操作を必要とする機器であればあるほど、アフターケアがしっかりとしていて、きちんと「体験」をフォローしてくれる会社の「製品とサービス」に、皆は注目するわけだ。と言うことが分かっていれば、「売り切り」からどのように脱却するか、といった、場合によっては業態の変更も必要だろうという考えにもつながるはずで。事実、Apple Adobe Microsoft などなどが、売り切りではないネットを通じたサービスに何年もかけて乗り出しているわけで。

 

もちろん、それは「今」の状況であり、今現在、情報化できるものがそれであるからこそ、そうしたサービスがビジネスの一面を彩っているに過ぎないわけでもある。

 

将来、興奮や、感動が「情報」として扱えるよるとするならば、もしかすると命にかかわること(食う、寝る、繁殖する等)といったこと以外は少なくとも見かけ上は無料になってしまう可能性さえあるのかもしれない。そんな時の「職業」ってなんだろうね?「価値」ってどうやって作っていくのか、ゆるりと考え方を変えなきゃいけませんよ、と求められている気がして。