音楽の中の

お気に入りの音楽というのは、いつ頃の体験が元になるのだろうか?

よく聞くのは、社会人になったところで、音楽を聴く習慣が途切れた、というもの。それまでは、いろいろな機会で音楽を耳にしていたのに、ふと気づくと、最新の音楽事情からは遠く離れていたり。なので結局は、高校や、大学時代の音楽に再び手を出して。といった、そこから育たない、発展しない方々。
 
最近では、YouTube で新たな音楽を知る、なんて人も不思議ではなくなった昨今。podcast という方法なども含め、ネットで音楽と出会うのがふつうの時代になりつつあるのかもしれない。
 
と、こんなことをほぼ毎日書き出しているわたしも、音楽は嫌いじゃない。
しかし、論理構成を考えようとか、意味のつながり、そもそも「言葉」の構成を考える際においては、「言葉のある音楽」が邪魔になる。もちろん、それは日本語の場合がほとんど。要するに、自分の考えに横から割り込まれるのだ。音楽の「言葉」が思考の邪魔をする。
 
だが、筆が進む音楽もある。それは言葉のない音楽、正確には、言葉としてこちらが理解することができない、もしくは言葉が言葉として聞こえてこない音楽。
突き詰めれば「ビート」だと思う。
   ドンドンドンドン♩
とか、
   ッタ、ッタ、ッタタタ♩
といったビートが、考えるリズムのペースメーカーに聞こえたり。
もちろん、流れるようなメロディアスなものも好きだったりする。心地よさが大事だ。ビートでも早すぎるのも乗り切れず、遅すぎるとアイデアが出て来ずに詰まってしまったり。その日の調子によるかもしれない。自分の調子だと124BMPくらいが非常に筆が乗る。
 
もちろん、書き物以外の時には、詩を重視する音楽だって聞くし、オーケストラの楽曲も好きだ。
音楽のない生活は考えられない。が、音楽をどうコーディネートするかなんてのは、みんな個人の経験でやっているのがほとんど。
Webではあるだろうけれど、音楽/楽曲によるライフコーディネートなんていうことで素敵な生活空間が作れるとうれしいのだが。そもそも、「一部のお店」って、そういう役割を自覚していたりするでしょ?