目的無き目標

目標設定は具体的に。会社で半期に一度の面談などを受けると、次の目標を設定させる企業は少なくない。

分かりやすいところでは「TOEICの点数を○百点越えに」などがある。その他にも資格試験合格や、売り上げ○%達成など、具体的数値は分かりやすい。

 

だが、そういう数値を設定する前提として、それら数値を設定したことで、「大目標」たる、たとえば会社の売り上げに貢献するとか、企業業績を10%アップということにつなげるのが本来の考え方。そこがあった上での「個人の目標」のはずだ。

 

より正確には、会社の野望/目的があり、それに即した目標値が定められる。そしてそれが各社内組織に割り当てられ、各社内組織毎の目標が設定される。それを達成するためには、その組織の個人個人がどのくらいのパフォーマンスを出さなければならないかということで、「個人の目標」が設定される。だから、下から積み上げれば全体の目標値をクリアーできる形になり、その目標値をクリアーできることで、「目的」や「野望」が成し遂げられなければ、つじつまが合わない。


とまぁ、あるべき論を語ってみたのだけれど、これを踏まえて。

 

さて、と振り返るとたとえば、この国にいくつ「原発」が必要なのか?エネルギー政策の比率として「原子力発電」がどのくらい用意されていなければならないのか。もちろんそのためには、場合によっては新しく発電所が必要になる場合もあるかもしれない。廃炉にしなければならないところも出るかもしれない。そうした際にはそれにかかる廃棄費用、新造費用、さらには、警備費用、メンテナンス費用。すでに「事故」になった際の被害想定も(悲しいことに)精度の高い実例を手にしているのだからそれも踏まえて。

そして、もしもそれではペイしないとするなら、ではエネルギー政策はどうするのか?産業政策はどうするのか?農業政策はどうするのか?など、すべてが独立事象ではなく、絡んでくる話。絡むからこそ、政治で解決しなければならなくなる話。

 

そういう視点を持てる人を選べているのか?偏った人になっていないか?

と言いながら、そもそも「そういうことができる人」の絶対数が足りないのが、今の日本なのかもしれない。

諦める気はないけれど、滅ぶべくして滅ぶのが組織。当事者があがいてみたところで、周りから冷静に見ていると、分かっちゃいるけど止められないことも。

いや、それでも上手く出来る人、いるはずなんですけどね。そういう人の多くは他のことにも長けていたりして、そっちで忙しい、とかね。