◯活の不気味

就職活動、結婚活動、他にもいろいろあるけれど。これらの言葉は、日本人が大変好きな形で省略され、就活、婚活などともてはやされる。

全てがそうではないにせよ、みんながやっている活動でしょ。だからあなたも、ねっ。っていう感じなのかもしれない。
 
 
が、それが気持ち悪いんです。
なんでみんなと同じ活動をしなければならないのかと。同じようにしなければならないのかと。これこそ同調圧力。言葉にしてみんながやっていて当然でしょ?とでも言わんばかりに押し付ける。
そのくせ、君の個性に期待してるとか、世界に一つだけの何とか…と言いながら、君個人しか持ち得ない特徴を持ちなさいだとか言ってさ。同じにしたいのか違いを持たせたいのかよくわかんなくて。つまるところ、都合のいいところだけ結局みんなと同じことを求めている。このご都合主義に見える部分が気持ち悪いのだ。
 
「名前」を付けたり、言葉として出来上がったりすることで、その事を一つの事象としてとらえやすくなる。が、当然のことながら、それらは「ラベル張り」であり、レッテルを付けること。それにより、誰もを同じカテゴリー、ひとくくりにして理解することで、物事を容易にとらえようとする。
 
全体を俯瞰する際において、そうしてとらえることの意義は確かにある。が、それでも個々で見始めた途端に、それらは「個」であり、違いがあって当然。一つ一つを見つめだしたところにおいても「ラベル」や「レッテル」をそのまま維持する形で理解しようとすること自体が間違いのはずなのだ。
 
例え同い年であっても、たとえ同学年であっても、たとえ同じ学校出身であっても、たとえ同じ会社で働いていても、一人一人は全く違うのだ。それをひとくくりに捉えたがるけれど、違うはずなのだ!
会社にせよ学校にせよ、集団で「効率よく扱いたいとき」だけレッテルを張って、本当に個性を伸ばしたいとか、個の違いを活かした何かを生み出したいと思っているのかと、制度が矛盾していたりすることはないのか?都合がいい方に、そこだけで対処しようとするからおかしなことになっていないか。
良いところとそれによる手間は表裏一体。どの表裏一体のセットを取るか?が求められているんじゃないですか?あっちの表と、こっちの裏のセットってのは、ありませんから…。