分けて扱う

ひらがなやカタカナは、音を表記する。なので意味が分からずとも、それらが読めれば口から出る言葉としては成立する。

 

漢字は、音を持つとともに、形に意味を持つ。その微妙なニュアンス、違った意味の違いを日本人は使い分けていたりする。

たとえば「きく」という言葉。聞く、利く、聴く、など、いくつもの意味を含んだ別の漢字があてはめられる。その時々、場面、対象に応じて実際には使い分けられる。薬には「効く」であり、言葉は「聞く」が通常だけれど、さらにそこに文学的?意識を盛り込んで「心に効く言葉」といった使い方が開発されたりもする。
 
こうした旧来の意味をある程度無視して違う漢字を当てはめて楽しんだりするのは、ネット民の得意技かもしれない。非常に同意する→激しく同意する→禿しく同意する→禿同…などなど。
 
意味と音を分ける事、ここ何十年かは皆が普通に行ってきた。いや、せざるを得ない状況になってきていた。
漢字変換
ワープロが開発され、今ではパソコンに向かって日本語変換したりもするだろうけれど。そこではまず「音」を入力する。ひらがなか、かたかなか、かなを直接入力するのか、ローマ字で音を入力するのかは人それぞれ。
その上で、そこに入力された「音」を「漢字」に変換する。場合によっては、「ニッコリ」と入力された「音」を<絵文字(アイコン)>に変換したりもする。
そう、漢字は究極のアイコンではないか。
 
だから、口から発する音を確定し、その音に匹敵するアイコンに置き換える。それが感じの場合もあれば、絵文字であっても何も不自然ではない。むしろ、非常に自然に絵文字と親和性の高い変換手順。
ある意味、絵文字文化が成熟するのは当たり前かも。漢字も、ケータイの絵文字も、LINEの絵文字も、変わらない。いわば現代の今の雰囲気を新たに表す文字/漢字に匹敵するモノを入力しているだけ。
 
それもこれも、音とアイコンを、読みと漢字の形という世界として構築してきた文化があったからこそ。
 
…のわりに、物事をみなさんごっちゃにして扱う人が多いのはなぜかね。分離して、できるだけ一つ一つの機能を分けて議論をした方が、建設的なのにさ。
あぁ、論理的に飛躍しすぎてるかも。語るはいつも、想いに足りない…かも。