助けるべきモノとそうでないモノ

弱っているモノに手を差し伸べる。美談の一つ。

だがそうして助け上げて生き残ったモノが、その後に貢献してくれるという保証は通常、ない。

だから経済活動の中では、自然淘汰、社会システムの力に任せて、滅ぶべき者、富むべき者を自動的に選択することにしよう…と言う。
 
助けるべきモノとそうでないモノ。
今後に期待できる、発展していく、努力している、伸びる期待が持てるからこそ、今手を差し伸べる。
もしも将来において重しになるなら、早めに切っておかなければ、共倒れになってしまいかねない。
 
…のだけれど、それを支えている基盤となる「人間社会」は、実は自然淘汰ではなく、弱い者も助け上げて共に生きていくことを選ぼうとしている。
では、「将来助けてくれるひとは誰か?」などと言ったところで、今反映しているモノでさえ、将来において重しになる可能性がある。逆に、今はひどい状況で青息吐息であったとしても、数年後には、その人々の大きな活躍で、華々しく大きな成果の花を咲かせる可能性がなくはない。
誰を助け、誰が助けるのかは、お互い様。いずれ小さくとも何かを担えるように、何かを任せてもらえるように。
 
この世に生まれ出たる機会をもらった者はともに、手を携えて伸びていこうではないか。人間以外のその他の生物では、ここまで大々的に社会構造を持たないことをはじめ、弱い者を救い上げていく特性はなかなか見当たらない。
であるからこそ、である。逆説的ではあるが、やはり無碍に助け「続ける」のはまずい事。差し伸べる手も、徐々に少なくせざるを得ない事情も相まって、その当人に、徐々にでも立ち直ってもらわねば困る。当人の意識が重要に。
だからこそ、個別にどう貢献するのか、どう価値を生み出すのかを考える。おんぶに抱っこでゴールさせるだけであってはならない。何処かで必ず、自分の小さな努力ででも進んでいってもらうために。
 
そのためには、手助けを始めるタイミングと同時に、それをやめるタイミング、もしくはタイムリミットは、はじめから提示されている必要がある。もちろん、すべて一律ではなく、当人のレベルを勘案してだろうけれど。
 
やっぱり、やめ方が下手なのかな、この民族は。