偶然の時間を、必然で埋めはじめる

ネット以前の世界では、様々な意味において、偶然の出会いという時間が多かったのだろう。

しかし昨今はと言うと、すべての時間を自分の思うがまま、自分が必要な情報、自分が欲しいと思う情報を探してそれを見聞きする時間にする傾向がある。

すべての時間を自分のやりたい事で埋め、自分の欲しい情報で埋めていく。ある意味、夢のような環境ではある。

 

たぶんはしりは、VHSの留守録機能あたりだろうか。

ソニーが、留守録機能の搭載で、コンテンツホルダーと争ったのは30年以上前。個人での楽しむ時間を「タイムシフト」として技術的に提供するというレトリックにより、人々のテレビ視聴の時間をシフトする可能性を与えた。

その後、ネットと言う大きな技術が提供され、当時のタイムシフトのみならず、見たいときに見たい番組を見られるような、ビデオオンデマンドといったサービスが利用可能になりつつある。ネットの力に放送局が翻弄され始めている。


他方、ネットの発展の原動力となった検索エンジンの発達により、自分の欲しい情報、欲しい可能性のある情報が、ザバザバと本人に押し寄せる世界が実現。読み切れないほどの「興味のある分野の情報」に日々さらされながら、人々は生活している状態に。まさに情報の海におぼれている人も。興味がないと思っている情報などに、構う時間すらない。

 

そうして「欲しいだろう情報」に埋められ、その情報のみでその人の時間の大半を使用してしまうことで、以前なら、そこで生まれていた欲しくないつもりだけれど、興味がないはずだけれど、何かの「偶然」で出会ったふとしたキッカケと出会う可能性は、時間配分的に確実に減少している。

偶然は、自分にはない何かを運んでくる。インスピレーションかもしれないし、体験かもしれないし。自分ではやらない、経験したことがない何かを持ってくるそれは、ある意味新たな刺激をもたらしてくれる。

もちろん、すべてが有効であるはずはない。が、自分ですべてをコントロールしていてはまず出会わない何かと出会う確率は、偶然の場合には明らかに高まる。

その刺激がつまらない、と言う事を知り、実はこの刺激は面白い、という事を知る。

 

人間、「心地よいモノ」で満たされた瞬間に、それは「つまらないモノ」に成り下がる。面白いモノで満たされている「だけ」では、やがて面白くなくなる。面白くないモノと出会うことで、面白いモノが引き立つ。

 

必然でのみ埋めてしまっては、やがてつまらなくなる。

偶然を大切に。