誰に判断される?

数学は、最初は具象の世界からはじまる。

みかん1つとりんご1つで云々と言う話。

一つのケーキを4人で分けると、1列5人で3列あったら全部で何人などなど、四則演算は、イメージしやすい。物理世界とつながっているうちは、形や物でとらえられる。

 

だが、中学あたりから段々と抽象世界に入りだす。「引き算」の世界で対応できたうちはまだしも、「-(マイナス)」の世界に入ると、途端にイメージが難しくなる。当然だろう、一歩抽象に近づいたんだから。

それでも物理的世界とつなげる事はできなくない。物理的世界とつながると、俄然楽しくなったり。

 

高校にはいると、抽象度がいきなり上がる。

「i」の世界や、「e」の世界、角度も「度」から「π」の世界へ。

無限遠や、漸近線などといった極限の考え方、微分積分もそうだろう。 

だんだんと想像しにくくなる。
 
でも、実はそれら抽象だと思っていた数学は、実学である「工学」と密接に結びついている。目の前の現象は、実はこうした関数で表記せざるをえなかったり、そうした高等数学で取り扱えるからこそ制御可能にもなりえる。
sin, cos, tanは、実は身の回りに山ほど存在している。それが「そこにある」と「知らない」「知るチャンスがなかった」だけだ。要は見えなかったものが見えるようになり始める。
 
それを知る事に無類の喜びを得る人がいる。理屈がわかることが楽しい人がいる。
別に分かることが偉いとか、分からないことが偉いと言うつもりもない。楽しみのポイントが違うだけなのかもしれない。ボールゲームのスポーツが好きな人もいれば、将棋や囲碁が好きな人がいるのと大差ない。だが、スポーツだって、ルールを知って、戦略が分かって、その一つ一つの行動の意味が見えた時、表層の活動、アクション以外の面白さに気がつく人は少なくない。
 
数学を知ることに無駄なことは何もない。もしそれが「人類の誰にも理解されていなけれ」ば、新しい技術を誰も享受できなかったはずだ。それを、「あなたには必要ない」などというのは、ある種の選民主義的考え方ではないか。
 
興味があれば、面白いとおもえれば、楽しければ、一時的に苦しくても達成感があれば、誰でも挑めばいい。そんなことが想像できる力があるだけで、どれだけあなたの人生を楽しく、刺激的なものにしてくれるか。知らない人に判断されることはない。
そこには、他の人には見えないかもしれない、広大な世界が広がっているんだから。