コンテンツが欲しいんじゃなくて

実は昔から、コンテンツをどうビジネスに結びつけるか、ということを考えてきた。いろいろと議論し、当時は仲間と話し合ったりもした。それがもとでいろんなつながりもできた。今でも続いているつながりもある。とてもありがたい。

 

仕事が変わり、直接的にそんなコンテンツとのかかわりが変わった。が、ふとしたきっかけで、また以前の思いがよみがえってきたりもした。

そこで気が付いたことがあった。

 

私は、「コンテンツを手にしたい」んじゃなくて「コンテンツを、その自分が見聞きしたい時に、遅れなく見聞きできる“自由”が欲しい」んじゃないだろうかと。

 

もちろん、コンテンツは見たい。それは本であり、テレビ番組であり、音楽であり、映画であり雑誌であり。その情報を元にして、友人と話し合ったり、思い出として語り合ったり、「あれすごかったよね、見た?」なんて話題にしたりしてきた。

本を手にするのは、中身を知りたい、読みたい、と同時に、ふと思い出した時に、おもむろに手にしたいからではないか。だから、図書館で借りるのもいいけれど、やはり何度も見返したい本は手元に置きたい。

音楽を購入するのは、これも何度も聞きたいから。自分の気分に合わせ、盛り上げたいとき、シンミリしたいときに、その音楽をすぐに引き出せる。

テレビ番組や映画が見たいのは、その時間には別の用事が入っていて合わないけれど、でも、ちょっと時間をずらしてみたいから。だから留守録が開発され、最近はほぼ見ない番組も含めて全録までできる時代に。

 

だから、時間と言うどうしてもとどめようのない事に対して、すこしでも自由に振る舞えるように、自分のやりたいタイミングでできるように。そのコンテンツが見たい、聴きたいと思った時に見聞きできる、自由が欲しいんじゃないだろうか?

だから、音がいいに決まっているけれど、少々の音の劣化でも気にしない。
だから、画がきれいなのに勝ることはないけれど、見られるなら多少画像が荒くても気にしない。
 
そうしてmp3という圧縮音源を用いて、大量のモノを手にしてその中から選別できる技術が編み出された。youtubeという仕組みが作り出されて、みんなが見たいと思うであろうものを提供する場が作り出された。
 
オンラインでのデータ販売も着実に売り上げを伸ばしている。
 
 
だが。
たとえば雑誌のデータ販売など一部では、その過去のデータ販売が継続されなかったり、すぐに販売停止になったりとして、「自由」が手に入らない場合が少なくない。データ形式になったことで、単純に「場所が節約できる」のみならず、新しい売り方、新しいビジネスにフォーカスせずに、今までと同じ価値の売り方をするとこうなってしまう。
すべてのデータ販売がそうではないだろうけれど、それでも「見れなくなった」り、「聞けなくなった」りするとわかれば、やはり「コピーを手元」に残したくなるのは、自由を得たい人においては当然考える事だろう。だって、そうでなければ、「見たいとき、聞きたいとき」に、自分の手にできないのだから。今まで以下になる事は、商売になりえない。
 
となると、データ販売形式をとるためには、販売サイドは、「これからずっと継続して売り続ける」といった覚悟がある会社かどうか?を見極められているところがあると言う事。すぐにやめそうだ、あきらめそうだ、と言うところが見えると、そのデータを継続的に使い続けられない…すなわち、そうして集めたデータがすべて死蔵される危険にあるということは想像に難くない。
 
さて、そんな覚悟がある企業、ビジネスプラン。生み出せそうなところは数えるほどだなぁ。