広告というコンテンツ

その昔、ネットメディアなど存在していないころ。子供のころは、週刊誌、月刊誌が楽しみだった。

そこに載っている記事、マンガ、小説はもちろん、欄外の落書きのような1行コメント、広告さえもが情報だった。

 

それがコンテンツとしての価値があるのかないのかはユーザーが決める事。

昔は、分厚い雑誌の半分近くが広告、というのもさえあった。それも含めて楽しんでいた。もちろん、今のように、広告を見せる場が多くなかった事もあり、広告自身にもコンテンツの価値があったからだろう。
 
たとえば今でも、関東や関西では、電車やバスの中の吊り広告はコンテンツ掲載の場だ。新聞の記事の下の雑誌の記事見出しも、コンテンツ。
邪魔だから、他の記事を載せろ、広告削除しろ、とは、基本言わない。
テレビCMだって、コンテンツだ。
あのCM見た?が話題になるくらいのものは、十分にコンテンツ。
 
でも、そもそも「そういうもの」を見てもらえなくなったんだよ。みんなはそんなものを見ていない。むしろみんなは「スマートホンの画面」を覗き込んでいる。
電車に乗っても、バスに乗っても、街を歩いていても、見ているのはスマホの画面。
テレビ番組も、録画した物をスマホに転送してみていたり。
情報提供画面が、究極に「パーソナル化」されたんだよ。
 
もちろん、そんな中でも見られるCMはある。テレビで流れているCMでも、ネット上で話題になれば、みんなが進んで「見に来て」くれる。作り手の側もわかっているから、それをyoutubeに載せているんじゃないか。
 
それ以外は、そもそもコンテンツとして認識される機会を失っている。場を失っている。たとえそれがスマホ上に現れたとしても、それに「価値」を見出してもらえなければ、躊躇なく削除対象に回される。
 
広告が、コンテンツとしての価値を保ち続けなければ見られなくなりつつある。
それは、「企業がアピールしたい価値」ではなく「受け手が感じられる価値」を提供することにある。
だから「炎上マーケティング」的な、問題になりがちな、話題になりがちな広告が良く見られる。それ以外は大した話題にもなりゃしなくて。
 
経済的にはそれは厳しい現実かもしれない。でも、そこまでして刺激をしなければならないほど、普通に満ち溢れていると言う平凡は、それはそれで価値があるんじゃないかな。
いつまで続くかはとても危うい気がするけれど。