ボランティアの主体

ボランティア。たぶん日本になじみだしたのはいまから20年ほど前の、阪神淡路大震災が一つの契機だろう。困っている人がいるなら、私の力が役に立つならと、皆さんがお金や物だけではなく、自分の力、労働力を提供する。

その後、地震国である日本では、さまざまな地域の災害の後に、そうしたボランティアの力を使って復興させたり、復旧させたりしてきた。

そもそも、「私の力が役に立てて欲しい!」と言う人がその地に訪れ、そのまま放っておいては混乱を生みこそすれ、効率的には動けない。ならばと現地では、そういったボランティアセンターを設置して彼らに、本来の思いである力を発揮してもらうべく、活躍を期待する。

 

そう。主体は、「自分の力を使ってほしい」という力を提供する側。

 

しかし最近、どうも不思議な記事や募集を見る機会が増えている。

「ボランティア募集」

これは、聞こえはいい。が、要するに、「…という作業があるけれど、お金は払えません。ただで働いてくれる方を期待しています。」と言う事。使ってほしい側でなく、使いたい側だ。

 

そもそも、なんらかの「仕事」が存在するところには、それなりの対価が発生するのは当然。もちろんそれはお金だけとは限らない。食事を提供するのも一つだし、経験を提供するというのもまた一つの形ではある。そして当然、もっともわかりやすい対価として「お金」を提供できるかをきちんと準備、用意するのが、主催者側の責務。そうした「対価」を提供できるか、価値ある対価を提供することをある意味放棄した形で「ボランティア募集」と、聞こえのいい言葉でベールにくるんでいる組織や母体があちこちに。

 

してもらう方が積極的に、ボランティア言うなよ!

特に営利目的の活動だったり、本来お金が発生するはずのそこで言う「ボランティア」は、言葉を変えたある種のたかりではないのか。
 
ボランティアは自分の力を、自らの意思で提供するもの。
嫌ならやる必要はない、自発的な行動。
それを押し付けるような風潮が、自分の肌感覚をざわつかせる。