転ばずに歩け

もしも生まれてから一度も転ばずに歩けたと言う人がいたなら会ってみたい。もちろん、致命的な転倒はなかったからこそ今歩いているのだろうけれど、ちょっと転んだり、ひっくり返ったり、子供のころは、そんな「大怪我をしない大人のまなざしの下で」転びを経験したからこそ、今歩けている。

最初はぎこちなく、やがてしっかりと。

 

だから、「転ぶ」のは当然なのだ。大怪我をしないように転ばなければならないだけだ。

 

ところが最近、「絶対に転んではいけない!たとえどんな小さなつまづきも許されない!」というシチュエーションが増えすぎていないだろうか?

赤ん坊で考えてみよう。絶対に転んではいけない!という状況で、絶対に手をついたり、跪いたりしてはいけない!なんていう制約があったとしたら、子供がすぐに歩けるようには到底思えない。少々転びそうなところで「大人が」手を差し伸べ、大けがを避ける。そうして子供は大人になってきた。

 

とするなら、他でも当然そうだろう。仕事においても、私事においても、絶対に失敗してはいけないと考えるからこそ、進化のスピードは極端に遅くなる。すり足で前に進まなければならなくなるからだ。

だが時代がそれを許してくれない。だからある速度以上で前に進む必要がある。それにより当然、転ぶこともあるだろう。それは自分かもしれないし、目の前を走っている誰かかもしれない。それを放っておくか?手を差し伸べて助けるのか?「絶対に誰も助けてくれないだろう」となれば、それは「全員」の速度が極端に低下する。完全競争は、極々極端に確立の少ない一人以外は、成り立たなくなる。が、実際は、「そうでなかった」からこそ今の人類の繁栄があるんじゃないだろうか?

単に競わせる以上に、きちんと助ける。いざとなれば助けてもらえる。ということは、いざという時には誰かを助けなければならない。だからこそ自分も信じて前に進める。大きな心配をせずに。

 

まさに囚人のジレンマそのもの。1人だけが抜け駆けすれば、その1人の儲けは大きい。けれど全体で見ればその価値は下がる。