持つリスク

Web記事を見ていると、ある周期で、あなたは持ち家派?借家派?といった記事が流れる。双方、メリットデメリットがあるわけで、最後はあなたの考え方しだい、なんてのが多い。

 

別に家だけではなく、持つことに価値があった時代があった。たとえば、二度と手に入らない、一期一会であるだろうコンテンツ(それは、映像、音楽、本、絵画等々なんでも)は、そのコピーやイミテーションであっても手元に置いておかなければ二度とふたたび巡り会えないかも…という考え方があっただろう。

だからこそ、旅行に行けばみな写真を撮りまくったり。

だからこそ、みなさん好きな番組は録画したり。

だからこそ、本は図書館で借りずに購入したり。

 

ところが、デジタル時代に入って、コピー技術が非常に発達した。そもそもデジタルでできている商品、コンテンツは、コピーと言えどデータとしてはオリジナルと全く変わりない。さらに、デジタルであるがゆえに、「モノの所有」と違い、物理的に占有される空間は、デジタルストレージのサイズ程度で極端に小さくなる。

 

以前は、物理的に形のあるモノ、アナログとして所有することで、自分の見たいとき、触れたいときに引っ張り出して出会うという行為で満足していた。ところが、デジタルデータでやり取りできると、本にせよ音楽にせよ、手のひらの上に、何千冊、何百枚の本や音楽がすべて収まる。

 

モノを所有していた時代は、スペースを犠牲にしてでも「機会の自由」を手に入れていた。見たいときに見たい。聞きたいときに聞くために、それを手にしていた。

しかし昨今、オンデマンドで音楽を聞くことができる。本であっても、環境さえ整えれば、数十秒で見たい本を手にできる。毎月少額の閲覧料を支払うだけで、音楽も本も、持ちきれないほどの中から読み放題効き放題。

こうなると「持っている」必要はない。いや逆に場所を食うだけ無駄にさえなる。

最新の情報、最新のデータ、どんどんと高精細化し、今まででは聞けない、手にできない情報をどんどんと手元に引き寄せることができる。持っていることが重荷になる。

 

でも本当にそうだろうか。ある瞬間に、「持っていなかったからこそのデメリット」で大きなしっぺ返しはないだろうか?それは、そうした情報を提供してくれる企業との信頼関係という「糸」で担保されているもの。それを信じていいのかどうか。まだ多くの人は信じ切れていないのではないかと。