持つ事と使える事

所有することによって利用の不自由さを克服していた時代があった。

けれど技術革新により、利用の自由度が上がる事で、所有せずしてできるようになってきた。いや、反対に、所有に関するコストが上昇し始めた、という事か。
 
以前なら、「利用する」には「所有する」もしくは「利用できるとき(ライブ)に利用する」しかなかったけれど、今はそれにかなりの融通が利く時代。であるがゆえに、皆が持たなくなった。個別に持つ必要が亡くなった分、みなでシェアする形式、仕組みが必要になる。昨今流行りのカーシェア、ルームシェア、デジタルデータで言うとクラウドという仕組みでのコンテンツシェアだったりする。
 
最近はこれすらも極限に達する勢いで、ミニマリストなど、本当に何も持たないに等しい暮らしをしている人すら存在する。究極、お金だって「データ」のやり取りに過ぎない。銀行口座をオンラインで使えるのであれば、それをもとにして生活はやり取りできる。
 
こうなってくると「モノ」として存在する「自ら」という物理媒体に起因する事象こそが究極のモノ。身体の新陳代謝、身体が欲するエネルギー消費をいかに効率化するか、というところにすら行き着く。
 
ただし、これが成り立つのは、自分が持たないモノは、いつでもすぐにどこかで使えるような状態にあることが前提に。これが崩れた瞬間に、当人の生活は突然行き詰る。いわば、みなが「トヨタ生産方式」の形で、必要な時に必要なものを手にして、最小限で動いているという生活に。
 
確かに効率はいいだろう。無駄も少ないだろう。
でも、個人が目指している事は、無駄の少ない生活なのかな。
みんながみんな、無駄ムダって言うんだけど、本当にムダなのかなぁ。