困っている事

自分が困っている事は、これと、あれと…といろいろあるわけで。反対に、自分では普通にできている、こなせている事は、普段は認識すらしていない。なぜなら「普通にできているから」。

 

そうした「あなたが普通にできている事」すべてが、「他の人すべてにおいても普通にできる事」ではないことはご承知の通り。それを知るには、それは人を観察すると言う事でもあり、同時に、自分を客観視すると言う事。これができているのか。

 

他人“だけ”を見ていたのでは見えてこない。見るべき対象は二つ。自分と他人だ。


他人をよく見なさい…と言われるが、それだけでは理解できない。なぜなら、「その他人と、自分との差異」を発見する必要があるのだから。一方だけでは足りないのだ。差分を出すためには、情報は二つ必要。その一つが「相手」でありもう一つが「自分」どちらも認識でき、さらにその差分を認識できてはじめて、他人の痛みをはじめとしていろいろな違いが分かると言う事。違いが分かるためには、自分が分かっていなければならない。

 

時々、「私も困っている、皆も困っている」と、その人の近くの人だけを見て、だから「みんな」困っているでしょ、ニーズがあるよ、きっと。と言う人もいる。まぁ当たらないわけではない。が、その人の近くの人だけでも、これまたまずい。みんなへとの飛躍が早すぎる。

 

あの人も見て、この人も見て、お?同じことで困っている、悩んでいる。他はどう?あっちの人は?こっち側あの人は?そうやってどんどん確度を上げていく。もちろん「自分」も見ながら。

 

別に「困りごと」に限ったわけではないけれど、困っている事は、解決策があれば欲している人たち、その解にニーズがある人たち。これをどう捕まえるのか。

時に、「今は当たり前」と「みんな」が思っている事で、これ以上どうにもならないと「思い込んでいる事」があるなら、それは潜在的に困っている事である可能性大。みんなが暗黙の裡に諦めているだけに過ぎない事。

 

「人の困りごと」が分かるためには、自分と同じかそうでないか。

その人はあきらめていないかそうでないか。

やりたくないことをやらせるんじゃなくて、やりたいと思っているはずの事、でも、できないとあきらめている事を掘り出す。

欲望が全くなくならない限り、尽きない「井戸」を掘る。