丁寧に扱われる場所

ここ何十年か、日本と言う塊りは、不景気と言う霧の中に存在し続けている感がある。時々、キリは晴れたかのように見えることもあるけれど、経済活性化対策などとして「三本の矢」などと対策めいたことも言われるけれど、でもその実はと言うと、対して上がっていなかったり。あせって統計数字の取り方などをいじりだした日には、やばさ丸見え。

 

だからと言って昔が良かったか?というと、人口増加要因をのぞくとさてどうだったのか?日本のみならず、どこの国においても経済活動に関して、人口増加要因を取り去ると、純粋に発展に起因した政策というのはどのくらいの割合なのか、興味があるが。

 

そんな昔は、それはそれで余裕があり、みんながそれなりに(今から見ると不便で貧しいように見えるかもしれないけれど)当時としては満足していた中で振る舞うことができていた。だからこその余裕。

でも昨今はというと、それすら削りつつ、さらに自分たち個々が、以前以上のより良い状況を維持するために、自分たちにも経費が必要でということで、余裕がない形に。だから自分に、相手に、どちらに向けても効率化という名目で何かが削られていくことが。

 

いぜんなら、より丁寧にしていたことを少し手間を除いて。機械に任せて、有りモノで代用して。でも実際はと言うと、以前やっていたところから比べると、効率化で得られた成果と、手を抜いて失ったモノとのパフォーマンスがあっているのかどうか。

 

今現在、あちこちで「効率化」が叫ばれているけれど、その多くは、何かを犠牲にして別のところの効率を上げることを余儀なくされることが少なくなく。もちろん、努力もせずにのうのうとしているところは、率先して効率化していただかなくては困るわけだが、もうパツンパツンのところ、率先して効率を上げてきたところを、さらに、ということで、疲弊していく。

 

効率意識のあるところほど、先んじて疲弊が始まる。自分たちの意義が、意味が見えていないと、その行動として1効率化されることで、価値感が10失われている事と見合っていなかったり。

 

人は今、丁寧に扱われる場所、本当に価値を認識し、そこに力を入れている場所を探すべきではないのかな。いや、実際はすでにそれらを求めているかも。「作業」ではなくそこに込められている「意味」を理解しないと。