部分が全体

ウォークマンが発明されてから、外出時に音楽を聴く人は格段に増えたはず。

街歩きにおいて、ヘッドホンをしている事自体が、おしゃれだとか、奇異だとかという目を持つ人は、今はまずいない。

私も外出時は音楽やpodcastを聞くことが少なくない。インイヤータイプのイヤホンで音を聞きながらすごす。

 

先日の事、外出先で店に入って休憩し、さて出ようかとして店の勘定を払い終えて店を出たところで、あるモノがない事に気が付いた。それはイヤホンの耳に直接当たる「ゴム」の部分。最近なら100円ショップでも売っていたりするあの部分が、片一方だけ無くなっている。

カバンをごそごそしてみてもいっこうに見つからない。仕方なく諦める。

と同時に、それは、「そこから先、今日の道のりの間中、まず音楽を聞くことができない」という覚悟を決めたことでもある。

 

別に基本機能が壊れたわけでもなく、音は出る。たった一つの部品、ゴムがなくなっただけのこと。でも、満足に使えなくなると言うこの事実。

要するに、「その一部こそがすべて」。ほんのちょっとした「部分」に不具合が出るだけで、「全体」が使えなくなるということ。

 

これに対処するためには、たとえば予備を持つとか、予備をすぐに買い足すと言った対処方法がある。たとえば、車にスペアータイアが積んであるのはその一例だろう。

 

部分が壊れるだけで、全体としてうまく動けなくなる。

部分が壊れてもなんとかやっていける場合は、その他のところに冗長性があり、全体でカバーしながら、フォローしながら運営すると言う事、余剰があるということ。

それはある意味でリスク対応力であり、万一の時の命綱。

でも、それすら効率重視として通常対応で使い切って、パフォーマンスを要求すると言う事がどういう事なのか、分かった上でやっている人はどのくらいいるのかな。

会社の「人」は、役割としての変えがいても

家族の「人」には、変えなどいないんだよね。

 

そんな家族こそが社会の「部分」。

今、そんな弱い「部分」が壊れ始めていないかな。