嫌われていいんだ

大半の者に嫌われることはとても怖い。それは、多くの友人知人に無視されたり、村八分にされたりした経験を持つものにとっては、社会が遮断されるほどの恐怖だ。だから弱気になり、周りになびき、少しでもそのコミュニティに親しめるよう、同化させてもらえるように、したてに出る。

 

が、ある時考えて見る。さて、どこかのコミュニティに同化させてもらえたとして、それはそのコミュニティの全員に、パーフェクトに好かれるということだろうか?と。

中にはウマの合わない奴ももちろんいる。明確に嫌いとは表明しなくとも、口はきかない奴も出てくる。要するに、どんな組織、どんなコミュニティにいたとしても、全員に完璧に好かれる事は出来ないだろう。

 

なら何%までなら、嫌われることを許容できるのか?
半分?3割?数人まで?
ここに気が付くと一気に気が楽になる。
なーんだ、そもそもすべての人がすべての人から好かれてるわけないじゃん。
少々嫌われようと、ちょっと嫌な思いをしようと、それが大半ではないのであれば、気に病んだところで仕方がないのだと。
 
もちろん、何も積極的に嫌われる必要はない。
だが、「少しでも嫌われること」を恐れる必要もない。
必ず意見の違いはある。そりの合わない奴もいる。でも、それこそが社会であり、それこそが世界。そんな「違いがある」事を認識し、許容することこそが重要であり、それらすべてに合わせこむ必要すらない。
違いを生む事、と同時に違いを認める事。