知っている事、できる事
あなたは、自分の中における「自分が知っている事」と「自分でできる事」の境界は、意識しているだろうか?
この差は案外大きい。そして、どちらにもそれなりの価値がある。
日本の受験、高校受験、大学受験は、まさに知識の受験。だから、知っている事をいかに「知っている」と表明できるかが重要だったりする。
予備校が機能しえるのは、「ある教科、分野において」知っていることを表明できる人が講師となり、その表明の仕方、表し方を教えることによって、受験に必要な分野のノウハウ、テクニックを、一人一人の生徒に授けようとしている。その講師一人だけで、受験に必要なすべての科目にたけている必要はない。
こうして各分野の「知」を知っているとして表明し、その「知っている度」が高い者が突破していくのが受験であったり。
だが、社会に出ると、「知っているだけ」では通用しない世界がやってくる。
「知ってます」
というと、
「なら、やって」
と言う事に。出来なきゃ何も意味がない。知っていたところで「おなかが膨れる」ことはない。やって成果につなげて、そして何かを生み出してこそ価値につながる。
特に昨今は、その「知」でさえ、指先で操作できるほどに簡単に知ることができる環境が出来上がっている。だから「知っているだけ」に普遍的価値はないのだ。少なくともそれら個別の「点」としての「知」をつなげて初めて、少し価値が生まれる。つなぐ事、編集する意味が価値を帯びてくる。
それを複雑に絡めて情報を作り上げたり、新たな認識を生むことができれば、文章として価値を生んだり、情報として価値を生んだりする。
ということで、「知」を操作しなければならない。「知」を組み合わせなければならない。たぶんそれが価値を生み出す事。
と、もしかすると、形として、モノとしてあなたは何かを生み出していなくても、誰も気づいていないある「知」と、皆が当たり前に知っている「知」を結び付けて見せることができているかもしれない。それは価値かもしれない。
…と当事者が考えられるかどうか。