完全な中立性

日本のメディアにおいて、原稿を読むアナウンサーに中立性を求めるとするなら、感情をこめてはいけないとなるのなら、これからの時代は人間のアナウンサーよりも、ロボットやAIの方が向いているかもしれない。「本当に」中立性を求めるなら。

たとえばテクノロジーとしてのTextToSpeach的機能を使って、原稿を読み上げればよい。CGを使って、表情を変えなければよい。それだけだ。
(本当は、それにしたところで「編集力」という力が振るわれているのだが…それはまた別の機会に)

 

しかしそれが本意ではないとするならば、では、どこまで感情を込めてよいのか、意思を込めるのか。そもそもそんなことに明確な境界線など引けるのか?

でないなら、はなからあきらめた方がいい。明確に線を引けないモノは、いつか、誰か、必ず「お前はそう考えるかもしれないが、俺はそう思わない」と言う意見が出てくる。主観で判断せざるを得なくなる部分が必ず残りえる。

 

とは言え、これまでの日本においては、その「主観の判断」が、単一民族国家であることもあってか、コモンセンスとしてうまく働いてきた気がする。それは裏を返せば、別の国民、文化から見ると、なにが境界なのか線引きが良くわからず、文化的障壁でもあった。分からない価値観、見えない線引きで判断されることこそが胡散臭く、理解不能な文化を生み出してきた。いや、なかのひとはどうだったのか?

 

でも、インターネットなどと言う、世界文化統一とは言わないまでも、思想的流路が全世界に張り巡らされてしまった昨今、なかなか抗いがたい状況が続いている。

 

すべてを統合させるのがいいのか、明確化させるのがいいのか。それとも、ローカルはローカルに判断させるのか。一部は周りからはわからない事を残せるのか。そもそもすべてが同じ基準である必要性はあるのか、それらに等しく何もかも全て等配分せねばならないのか。

 

偏在こそ個性。遍在は凡庸な社会すぎる事になるのではないか?

いや、遍在を目指しても、偏在化する程度の偏りが残る程度でなければ、効率性は追及できないともいえるが、そもそも、「効率的」と「幸せ」とはまったく軸の違う価値基準ではないかと。

 

なんか当初の話とずれているけれど、まぁいいや。