その証拠は、それですべてか

理科系において実験では、データの取りかた、レポートの書き方などを学ぶことがある。

といっても、学生レベルでさせてくれる実験など、多くの場合、予想された結果が出ることがほとんど。きれいなデータ、ほぼはずれのない結果が導き出されるそれらがそろう。

 

しかし、一般の事象、実験においてはそうはいかない。むしろ、そうした「きれいな結果」になるかもしれないという仮説の下、世の雑音にまみれた中からそれらを拾い出すために、なにが違うのか、雑音か、を知ることこそも重要。

 

だから、何が雑音データなのか、何が邪魔な要素なのかを「明確にして」排除し、だからこのような綺麗な式、美しい理論にまとまりますよと絞り出す。

 

そして追実験をして、それらが確かに裏付けられればそれはそれで良い。が、世の多くにおいては、なかなか理想的なデータに揃わないことが少なくない。

そう、拾い出したデータは雑音にまみれているだけでなく、「何が雑音データ」なのかもなかなかわからない。

 

だからこそ、計測したデータは、ひとまずすべて俎上に上げて、その上で、「○○という理由でこれらは外すことができる」という、雑音判断の過程が必要がある。

でなければ、都合の良いデータ、都合のよい証拠だけを提示することで、ストーリーや公式を導き出すことはいともたやすい。

だが物事の多くで、そうした取捨選択をしている判断が明確にならない時点で、すでにストーリー作りが始まっている。都合の良いデータ/証拠のみをならべ、都合の悪いデータ/証拠ははずしていく。

 

これを確認するには、そもそもそれに向けて収集された「すべてのデータ」を、いつでもすべて開示させるような仕組みを作るしかない。相手が見せてきたそれ「だけ」をもとに、判断する、議論するのではなく、相手が持っているけれど、「実は出してこなかったデータ」によってそれに反証させられることが少なくない。

 

だからこそ、証拠主義は証拠主義で、集められたデータ、証拠と認識できなかったと称する証拠までも、誰もがすべて見られるようにする必要がある。隠すことで作られる流れ、ストーリーがあるからだ。

 

と言う点で、情報開示がきちんとなされていない組織、研究は、これからどうするのかと。まだまだ暗闇は広がっている気がしてならない。