流動食の時代

1995年、Windows95が世間に広まり、その後にはADSLが急激に価格破壊を起こしたあたりから、情報過多の時代に入る。当初はそれらを使える環境、パソコンが必要だったところ、通信環境が整い始めた頃から、徐々にメールを携帯電話で、Webも携帯電話で…。そして今は、スマートホンのみでも、10年前にパソコンでやっていたような内容と、ほぼ同等の内容がすべてこなせる時代に。

 

そうしてやってきた時代を経て、出来ることは?やっていることは?というと、日々あふれる情報を、浴びるように飲む、自分に取り入れている時代。なんとなくWeb記事を読んでみたり、通知されるニュースを眺めたり。人によっては、無駄時間を潰すゲーム三昧とか、ね。

そうして向こうからどんどんと押し寄せる情報を制御しきれずに、「飲みほす」。まさに流動食のように、次から次へと。噛み応えがないニュースは流れるように。噛み応えがあるニュースも、ゴクンと飲み込む。時々、いくつかの芸能ニュースを噛んで味わってみたり。

ほとんど味もわからず大量に飲む。体に良いモノ、悪いモノ。どちらもどんどん飲み干す。あまりに栄養にならなさすぎて、これではまずいぞ、と「サプリメント化」された情報でお茶を濁し始めても、なかなか押し寄せる情報量から逃れる事が出来ず。逆に、飲み込めない日、ネットから離れた日がくると、情報に飢えたりもする。

 

送り手側も、「噛み応え」のある情報だと、そもそも「口に運んでもらえない」事を知っている。だから飲み干しやすい、サラリと飲める情報にすりつぶして伝える。流動食のようにすり潰された情報は、噛み応えなく、ドロリと流れ込む。

 

では、情報は「栄養価」さえあれば良いのか?「カロリー」さえ満足すれば良いのか?

噛むことで/考えることで、実は頭を働かせなければならない局面はないのか?

Webに、ネットの情報に、そういうしっかり噛まないと消化できないものもなければ、そうしたものを味わおうとしなければ、情報が流れ続けなければ、やがて僕らは「噛めなくなって」いかないのか?

流動食ばかりで、栄養価だけでできている身体には、トレーニングが必要ではないのか?噛み応えがある、脳のトレーニングは、どこですべきなのか?

 

 

本屋がつぶれているらしい。

少し心配している。