完成したら

商品やサービスを出す、提供する、ということを、かつては「完成」と呼んだ。

だが、それほんとうに「完成」なのだろうか?それ、なに?

 

そもそも昨今のサービスなどは、日々進化しつつある。昨日はこんなサービスだったものが、後に別の形に変化することなど普通にあり得る。

モノにおいても同じ状況になりつつある。かつて、家電製品は、完成形としてのモノを皆が購入しており、来年には来年の、少し機能が進化した「新製品」としての商品が出ていた。

だが昨今は?というと、ネットワーク時代。半年前に購入した商品の機能がアップデートされる時代。(だが実情はと言うと、結構な確率で、製造側の都合による機能補完がなされているに過ぎない時代でもあったりする。)

 

テスラの車が、最新のソフトにアップデートすることにより、自動運転機能が搭載されるものにグレードアップすることが広まっている。日本ではまだまだテスラの車は少ないだろうが、自動車においてすら、こうした「のちに機能がアップデートする」という能力が当たり前に搭載されている時代。

 

とすると、「完成」とはなにか?だ。

それはもしかすると、「もうそれ以上は何もしません、どうにもなりません」というフラグでしかないのではないか?

完成したら、もうそこで終わるよ、という印。

 

逆に、未完成なものは、まだまだこの先続く。未来が期待できる。
ただ、これまでは「同じものを上書きして」新しくするという考え方が浸透していなかった。というか、新しい機能のためには、新しく買い替えるという考え方、テクノロジーしかなかった。
でも今は、上書きできる。それもネットを経由してでも。
 
完成形でないと言う事は、まだよくなると言う事。
これで終わりではないとなると、未来に期待が持てると言う事。
ただし、「そこまで付き合う時間がない」場合には、やはり「完成形」の方がいい事もあるかもしれない。
 
完成品か、さらにその先の未来を期待するのか。
 
ただ普通、多くの場合において、今現在到達できる最高の状況を目指して、作り上げ、そこを完成と呼んでいる。と、そこに至った瞬間に、その先が見えてくることが少なくないのだが。