「正」解はあるのか

小中学生のころ、国語もそこそこ点は取れたが、それよりも数学や算数の方が好きだった。明確に「これが答えだ!」が必ず一つある。裏を返せば、それ以外の答えは存在するはずがなく、唯一絶対の解が見つけられるかどうか、といった視点で見ていた。

「こうも考えられるのでは?」という抜け道がない事、論理的に展開できるので、白黒がはっきりするのがよかったのだろう。

 

しかし、さすがに大学、そして社会人に成ると、さて「正解」とはなんなのか?という問いと戦い続けることになる。

「正解」。唯一絶対の解であり、それ以外はすべて、何の疑いもなく間違いだ!という事はいえるのだろうか?ほとんどの事象において、「今分かっている範囲では」という接頭語が付いたうえでの「解」でしかない事がほとんど。

その証拠に、あとになって覆る理論、歴史的史実などというのは、枚挙にいとまがない。

 

ビジネスも当然同じであり、目の前の課題、乗り越えるべき難題をどう超えるか?に、「唯一絶対の正解」はありはしない。こうした方がいい。…でも、こうもできるでしょ、とか、どちらもメリットデメリットがあることがほとんど。時に「唯一」の解しかない場合は、それがベストの解というよりも、それしか「選べない」事がほとんどで、それよりも少しでも良いものが見つかれば、いつでも乗り換えたいくらいの、最低の解であることがほとんど。

正解などなくて、今見えている範囲で「より良い解」を探すだけ。

だから、つねに迷いながら、もっといいものがないのかと疑いながら、それでもさまざまな制約上、今はそれを選択するしかない。
 
 
 
子供のころに、社会見学に行き、そこでいろんな質問をしたり、クイズ形式で見学者から意見を聞いたりされることがある。
「なんだと思いますか?」
こう聞かれて、10歳以下くらいの子供はどんどん思ったことを答える。
それに比して、高学年になるにつれ、答える子供が減ってくる。
たぶん、「正解」を探そうとするからだ。
間違っていたら恥ずかしい(わけないのに)。
知らないから見に来ているのに、頭のいいところ、いい恰好を見せたかったり。
 
でも、正しい解って、別のそれじゃないことだってある。
「今正しい」は、「将来も正しい」とは限らない。
だからこそ、今の正しさは、スピードをもって決断しなければ意味がないんだよ。
「正解」ではなく「今、価値を持っている解」を、まず探そうよ。