ニンジンの場所

馬の目の前にニンジンをぶら下げると、馬がそのニンジン欲しさに、いつまでも前に進み続ける。といった漫画やイラストを見たことがあるだろう。

馬に乗っている人が、釣竿状の先にニンジンをぶら下げる。

 

でももしこのニンジンが、100m先に吊るされていたらどうだろう?

もっと極端には、次の停留所にニンジンが置いてあるよ、と言われたらどうだろう?

はたして馬はそこまでたどり着く気になるのか?

 

普通は「見えるところに、価値あるモノがあり、それが欲しいからこそそちらに動く」というのが、動くための原動力。だから100m先では、すぐには気付かなかったりする。ましてや、見えないずっとずっと先においてあるとするなら、「そこにある」と信じたものにしか、その力は及ばない。

 

ぶら下げるなら、見えるところに。効果が出るところに。信じられることに。

見えないずっとずっと先に、それらをぶら下げたところで、ぶら下げた者の意図する役には立ちそうに無い。

 
このまま働き続けて、生活していて、子供を授かって、子供を育てて、価値があるのか?と思えなければ、当然、そういう行動にはつながらない。
消費して、良いモノを買って、未来が少しでも明るくなる…ということにつながらなければ、「より少しでも明るい可能性が残るように」消費を控えたり、物を買うのをやめたりすることで、自分の未来に灯をともしているのが多くの人々ではないのだろうか。

ただでさえ、これから仕事が減りますよ、と予言されている未来。
グルッと回って、みんなでいちじさんぎょう、と言うのも、案外嘘とは言えないかもしれない、と思うほどに。