凡庸なホンモノと

たいてい、本物は優れているからこそホンモノとして認められる。

だがホンモノも、時間とともに経年劣化し、くたびれるモノもある。だからこそ、いつまでも「本物」というレッテルに胡坐をかいているようでは、「本物」のホンモノとしての所以が保てなくなる。

 

私が高校生の頃、企業寿命は30年だと教師に教わった覚えがある。30年。なるほど。長いようでいて、いざ就職してみると、ふと気が付くと30年くらい経っている企業は珍しくないのでは?

大抵、「いい企業」に入りたいと思う人は、それなりの業績を上げている企業を目指す。よほどのことがない限り、創業1年にして「いい企業」にはならないわけで。だとすると、5年から10年の実績を積んだ結果として、良い企業にまで成長してきた。ここまでで約10年弱。

そんな時に就職するとすると、その人の年齢は二十歳そこそこ。その人が20年働いて、うまくいって部長職くらいに着く40代半ばで、すでに企業は30年を迎えることになる。

 

その際に、その企業はどうなっているのか?

当然ながら、多くの場合、創業者は引退しているか隠居しているか。そして、うまく行っていれば、その初代の遺志を受け継いだ人が現状を回していて。

しかしそうして二代目、三代目になってくると、そもそもの初代の意思とは違う方向にぶれ出したり動き出したり。初代の良いところ、初代の考えの微妙なニュアンスは徐々に色褪せ、良かったところがコストになり始めたりする。

 

そんな時に創業時に良かった、その良き部分のニュアンスを受け継いだ、全くの第三者が、その組織の外側で動き出す。ハッキリとわかる場合には「○○のモノマネ」と揶揄されるが、時にうまくオブラートに包まれていると「○○の再来」などともてはやされたりもする。ある意味で、優秀で夢を見させてくれるニセモノでもある。御手本とする企業は〇〇です、なんていうのがそれだろう。

 

凡庸なホンモノと、次の世代として組織の外でその思いを受け継いだ優秀で夢を魅せてくれるニセモノ(いや、当人はニセモノになるつもりはないと思うのだが)と、どちらが良いのか。

 

名前に、ブランドに騙されるのか。

本質を見極められるのか。

そういう意味では、実は使う側も、見極める側としての「見極め屋としてのホンモノ度合」が試されている、という事ではあるのだが。

 

…ということで、自分の周りを眺めてみると。