それが「すごい」ことが分かるために

それ自体が「すごい」と言う事が理解できるためには、それについてのさまざまな土台となる知識が蓄積されていて初めて「すごい」とわかるもの。

だから、それについての基礎知識が無かったりすると、本当はすごいモノであったとしても、

「ふーん、で?」

となるのがふつう。

(子供の社会見学などにおいてはまさにこういうことが頻発しているわけで、子供の視点において、何がすごいかなんてのは分からないけれど、引率している大人側が、ほほぉーとなっているなんてのがいい事例。とはいえ、こうした場に子供を連れていく事、すごいことを理解するというよりも、こういう風にして社会は動いているということを理解するという点で、十分に意味ある学習だと思うので、別にdisるつもりはさらさらない。)

 

大人にとっても、ノーベル物理学賞などの賞を取った人の理論など、聞いてもなかなかわからないし、そのすごさが実感できないのはまさにこうした事の延長線上に起こっていること。だからそのバックグラウンドとなる、積み上げるべき事前情報を、優しく丁寧に教えてくれるテレビ解説者が出て来たり、科学部記者が丁寧に説明してくれる。分かりやすい物事にたとえて、○○だとすると、などと、若干正確ではないかもしれないけれど、すごさが分かる、理解できるための基礎知識を即席で構築してくれる技術。

そう、これは説明の技術ととらえられるはず。

 

解説の力のひとつはまさにそこにある。読み解き、勘所を簡潔に情報化し、伝えること。別にノーベル××といった事に限らず、本の書評でも、芸術、難しい経済学理論でも、映画の伝えている事でも、なんにおいても、それらが伝えたい要点をわかりやすく伝え、場合によってはそこから発展できる何かにつなぐことができる人。

「味わうべき情報とは何か」を理解させてくれること。

 

凡庸に日々を過ごしていては気付かない、日々身の回りで起きているすごい事を、時に実感し、時に知識として蓄積することで、さらに身の回りの「すごさ」を実感できる自分になる。そう、分かるようになったと言う事は、以前より成長していると言う事。知っていることが、その分野に関して増えていると言う事。

 

だから時に、毎日面白い事がなーい、刺激がなーい、すごい事が周りになくってつまんなーい…と言う人は、視点を変えてみるといい。身近な「よい解説者」を見つけるか、もしくは自分で何かに突っ込んで勉強を試みるかをしてみないと。

結構、えっ、この人がそんな知識を?って事、あなたの周りにもあるはずでしょ?