世代につけられた名前で

ゆとり世代とか、ドローン世代とかとか…。

要は「その世代の特徴を、ワンワードで捉えたい」なんていう、企業の思惑と、それをなんとなく季節イベント的にとらえている人々との相乗効果に他ならなくてね。

 

こう言ったのはそれ以外にも、「今年の漢字」や「流行語大賞」も本質的には似たようなもの。どれも、「複雑な現代を、なんとか簡単に理解できないモノか」といった人々の心の奥底に持つ期待に応えたイベントでしかない。で、結果としては「その言葉で理解でき“たつもり”になれた」気分で満足する事。

 

こういうモノが流行る一方で、「人とは違う何かを持て」とか「世界に一つだけの…」といった、「違い」を生み出せと言われている事自体が良くわからない状況を生む。

同じであれ。でも違いを生め。

 

世代につけられたキャッチフレーズで、「あなた」が捉えられようとしたとき、あなたもその方に聞いてみればいい。「あなたの世代は何と呼ばれていたんですか?」そして聞いてみればいい。「あなたも、“そう”だったのですか?」と。

キャッチーなフレーズが付けられた世代の呼び名は、あとあとずっと使い続けられる。バブル世代とか、ゆとり世代とか。でも、その中で生き続けている人たちは、それぞれに個性を持ち、それぞれに違う人生を歩み続けている。そこを「とらえようとしていない」人がいたり、「ひとくくりにしよう」としている人がいるとするならば、それは「その人の視点として、“そういうこと”」。自分の判断でなく、誰かの判断に委ねている。

 

裏を返せば、その「言葉」に縛られない方がいい。ついつい帰属意識から、それに合わせようとしたり、それに沿った発言をしがちになるけれど。

いや、良く考えたうえでその通り、なら、それでもかまわないけれど、要するに、考えずになびくのは危ないんじゃないのと言う事。

 

そう、「流される」のは楽なんだ。

だけど、自分が「思ったように流れていく」のは、大変なんだよ。