具象と抽象のはざまで
抽象的思考が苦手な人がいる。その事物、事象が持つ共通事項をとらえて抽出すること、モデル化するということが苦手な人。違う言い方をするなら、ルール化することが苦手な人ともいえる。
抽象化は、ある意味強力な「情報圧縮」でもある。抽象化してとらえることにより、全く違う世界と見えていたことでも、同様の枠組みでとらえ、数少ない縛りですべてを記述できてしまったりする。
行動ができない人がいる。抽象化することによってよりルールを一般化すれば、例外事項が多く生まれて「美しくない」、だからそうはなりたくない。美しい統一されたもので描きたい。美意識に通じる何かがあって、だからこうはしたくない。
しかし現実は現実。だって「ここ」はこうなっているんだから、「こうしなければしかたないでしょ」という連続だ。美意識と現実のギャップの中で、良い解決法が短時間に出ればいいけれど、そうそう出てこないとなればそこで行動が止まる。スタックする。
だから具象に落とし込むには、こことここはこう妥協する、という妥協点を示すこと。美意識のバランスを、この部分では無視してねということ。それが、その行動する本人の美意識の重点になければそこそこ受け入れてもらえるものの、それが重点にかぶっていると行動できなかったり。
でも、実際に生きるということは、具象と抽象を行ったり来たりすることの連続。
ルール化して皆が行い、それぞれに成果を出すために具象化した行動を促す。
いったり、来たり、また行ったり。
常に揺れ続ける。どちらかに振り切れてしまうと、それこそ一大事なのだから。