「欲しい」の意味(所有と利用)

子供の頃、店頭の、そのおもちゃが欲しかった。

あれ買ってぇ!と店の前、商品の前でおねだり。
 
そうして何とか手に入ったはいいけれど、ちょっと触ってつまらないものもある。
子供はそんなおもちゃはスグほっぽり出して、もっと面白いものを探して次に行く。
大人からすれば、おいおい、高かったんだぞ、なんて言うけれど。
 
子供は所有したいんじゃなくて、利用したい。
だから、今それを使いたい。
使いたいと思った時につかいたい。
まず試してみたい。面白ければ使い続け、
そうでなければ、ハイ、さようなら。
 
 
じゃあと、それらすべてをその人が手元にすべて持っていれば、今後いつでも使えるようになるのか?
実は、所有していても使えない事は、結構多くの人にあるのではないか。
家にあるはず、でも、どこに行ったかわからない、とか。長く動かしていないから、今動く保証がないとか。
それは、すぐに使える状態にない。なければ持っていたとしても使えない。
 
本を「使う」と言うのは、本来的意味は、それを読む事。
車を使うと言うのは、それを動かし、どこかへ行くという事。
使えるような状況になっているための、メンテナンスが必要なものもある。
 
もちろん人によっては、それを「メンテナンスする事」を目的とする人がいるのも事実。その人は当然、所有しなければそれができない。
でも「使える事」が目的ならば、常にメンテナンスしつつ、必要な時には使える事こそが、持っている価値。
 
人が価値を見出しているのは、
「持っている」という価値と
「使いたい時に使える」という価値と
別の視点での「使えるように触り続ける」という価値と
これらがないまぜになって、「ほしい!」と思わせ、購入させる。
 
そして本が、所有から、購読権に変わりつつある。
そして音楽が、記録媒体の所有から、聴取権に変わりつつあり。
たぶんこれから10年20年で、自動車は、所有権から利用権に大きくシフトが起きそうだ。
 
それにうまく切り替えられるのは、ユーザー、企業、それぞれの認識と、文化と、「風」をいかに読めるかということか。