道具は使い方が

料理がうまくなりたいからよい包丁を

DIY を上手くやりたいから、いい道具を
 
良い道具は、もちろん使いやすい、効率がいいという点もあるが、そもそもその道具を「どう使うか」という視点も忘れてはならないのは当然の事。
 
昨今、パソコンを何のために買うか、という議論はさすがに下火っぽいけれど、でもそれは、使い方がわかったというよりも、安くなった、性能が上がったことによる影響の方が大きいような気がしている。値段の違いによる性能の差を吟味して選ばなければならないほど、価格と性能比において影響を受けることは今はまれで、最低価格のものを選んだとしても、普通の人が、日常において、ネット、メール、動画等を見聞きする程度のパフォーマンスは、どの機種においても十分に備えているほどに技術が成熟したということ。
 
他方、昨今時々言われるのが、ガラケーをやめてスマホに。でも何のため?という問いもあることはある。けれど、でもこれとてたぶん、一般ユーザーが使うには、どの機種でも十分にコストパフォーマンスが上がってきている時代。これからはそれが、(今まで以上に)じりじりとコストダウンしていくところで、どこまでの値段として納得できるか?というところかと。
 
 
道具というのは、(私のイメージだけかもしれないが)プロに近ければ近いほど、またその道具を使いこなしていればいるほど、単機能に収斂されていくように思っている。極端な話、大工さんが「金槌とノコギリとカンナが組み合わさった便利道具ひとつ」を使いたがらずに、金槌は金槌、ノコギリはノコギリ、カンナはカンナという単体道具を好むといったようなこと。
だから、「通信端末」は「通信端末」、「コンテンツ作成端末」は「コンテンツ作成端末」、「プライベート用マシン」と「仕事用」と分けたりするのも一つかと。
 
その道具を、どのシーンで、だれに向けて、何のために、どうやってつかうのか?それをきちんと意識して、あいまいにしない。複数の意見を混ぜ合わせて、わからないようにして使わない、ってことが、「道具」をうまく使うための心得とか、作法なような気がするのだ。
 
物理的な道具も、倫理的な道具も。
社会をうまく回す道具としてのルールも、法律も。
テクノロジーも、そしてこれから出てくるであろうAIも。
 
 
AIが究極的に発達すれば、お腹が空いたらデリバリーを提案してくれ、何か面白いものをといえば、テレビ番組やイベントを紹介してくれる。まさに有能なコンシェルジェにもなるだろう。
だが、そうした事にエネルギーを使う必要性が下がった脳に、では何をさせるべきなのか?
これで脳を遊ばせておく人は、多分いわゆるバカに成り下がるんだろう。
だが、そうしてできた脳のパワーの余力を、さらなる新しい事、創造的なことを考える力に振り向ける事ができれば、当人はもちろん、人類としても成長の余地がある。
AIを上手く使えば、その先へ。だが、単純に楽をして、遊んでいるだけで何も考えない世界へと突き進むとすると、それは結果的に崩壊へと突き進む事にも見える。
まさに、道具は使い方次第か。