完成とは

サグラダファミリアは、当初予想よりも早くできそうだ…と言いながら、さて、何10年作り続けていることか。しかし、その制作途中であっても多くの人が訪れ、その風貌を楽しんでいるのはご存知の通り。

 

とすると、完成とはなんなのか?設計者が言ったとおりに作り終えればそうなのか?より厳密に言うとするなら、それが出来上がった「瞬間」から劣化が始まることを思えば、完成とはほんの一瞬を指す言葉でしか無いはず。となれば、期待している完成は、ある意味、時間的幅をもたせた「状態」を持ってして定義すべき事かもしれない。

それは、こういう事をやり続けられる、こんな事が実現できる状態を作る、といった、あるやりたい事が実現できてこその完成。特にモノ系の製造業と呼ばれるものであればあるほど、モノができた事ではなく、それができて、そしてその利用ユーザーによるある使われている状態をもってしてイメージすべきものが完成では無いのか。

 

モノさえ作ればいい、あとはユーザー次第だ。として、ユーザーに責任をおっかぶせる人もたまにいる。もちろんそれはそれで一つの解釈としてなくはないのだが、さて、ではその会社、その組織の次の商品やサービスは、使ってくれる保証はどこにもない。

 

言われた通りできました。でも、できたものはゴミ同然…という驚くべき様な事実が、実は驚くべき確率でかなりたくさん出来上がっていることも事実。なので、形にさえすればいいとか、言われたことだけやればいいと思っている人は、どこかで改めたほうがいい。

 

ただ、昨今の運営事情、会社経済事情を紐解いてみると、言われたことすらキチンとするので精いっぱいな状況があちこちに。なので、どんどんと品質全体、サービスの質が全体的に沈んでいる感じがしてならない。無茶な効率を押し付けすぎて、本来の、考えて品質を上げる、保つ部分がドンドンと劣化しているのを感じる。
良い方に倣うのではなく、安い方(かつ悪い方)に倣っている今の社会は、今回の選択でどちらを向くんだろうか?今日から新たな社会の幕開けになるのか、地獄の扉が少し開いてしまったのか。