突き詰めた先

ある意味、日本人の特性の一つではないかと思うのが、物事を突き詰めること。
職人のように一つ事をとことんまで突き詰める、ということにかけては、一部の人だけなのかもしれないが、非常に長けている人種ではないかと思う。

相対的比較に過ぎないかもしれないけれど、イノベーションを起こすような突拍子もない発想も、多くの失敗を重ねたうえで一つのでっかい山をあてるやり方よりも、こつこつずっとずっと探求し続けた結果として、その結果偉業を成し遂げたという形での金鉱脈を掘り当てるような、そんなやりかた。

 

ただ、その長けていることに関しての使い方や方向性を間違えると、とんでもない痛手を食うことになりはしないかとも想像する。

 

昨今、アベノミクスが成功しただなんだといわれても、庶民において景気が上向いている感覚を実感している人はやはり少なく、明らかなデフレではないものの、それでも景気が良い感じはしていない人が少なくない。

仕事の局面においても同様で、であるがゆえに、いかに効率を上げるか、いかに無駄を削るかを雇用主から迫られる日々。ちょっとした余裕などがあると、そんな無駄話してないで…、油打ってる暇があったら…と手厳しい。

 

けれどこう考えてみる。

もし、「すべて」の余裕を削りに削ることになったとするなら?
国民性からはやりかねない。余裕を削ることを極限まで突き詰める、そんな経営者側のプレッシャーがブラック企業を生んでいる記事は、いくらでも散見する今日この頃。

 

すべての余裕が無くなれば?それは別の言い方をするならば、突発事故、予見していなかった状況には対応できない仕組みでしかない。なぜなら、当初の目的として動いている以外の作業はすべて無駄なのだからそれらすべてがそぎ落とされている。だから割り込み、事故、思わぬ出来事には「対処できなくなる」のだ。

 

だがたぶんそうなったところで、雇用主はこういうのだろう。「そこはお前で何とかしろよ」。それは非人間的であり、そんなことが前提になっている職場だとするならば、本来ならば人は集まらないはずなのだ。

突発事象、リスクに対応するための力をすべて全力で使ってしまっては、それ以外の思いもよらぬ事態は、ある意味すべて甘んじて受けますという覚悟を決めたことと同義。それは、会社であっても、組織であっても、そして社会であっても。

 

どんなリスクでも甘受するつもりなのか?余裕を削り込むというのはそういうこと。

 だがたぶん雇用主はこういうだろう。
「そんなことを言ってみたって、そもそも「すべて」の余裕を削ることなんかできない。だから俺たちはそれを見越した上で削れと言っているんだよ」と。

 

いや、私の感覚ではもうかなり極限に近づいている気がしてならない。一部の会社も、そして社会の仕組みとしても。

突き詰めて、どんなリスク、どんな突発事故が起きても甘受するつもりなのか?
そして、弱いものにしわ寄せがいく…。悲しい。