読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

それは録画するしないではなく

ラジオやテレビにインタビューを取られた人からよく聞く言葉が、

「自分の主張と違う形で放送された」

といった声。これは、その人の発言をそのまますべて放送したからではなく、その中の一部を編集して、「つまんで」時間枠に収めることにより、とらえる側の印象が変わってしまったことによる。

 

そう、「編集」が入ったとたんに、元の情報の意味は大きく変わりえる。それは、編集者の意図があるにせよ無いにせよ、とにかく何かが変わってしまう。だからこそ、編集権を与えるということは、非常の大きな権力を与えるということになる。

 

これはラジオやテレビのインタビューに収まる話ではなく、昨今では取り調べのビデオにおいても全く同じこと。「編集権」を与えられた方は、当然、自分たちが意図する形に編集することが可能になる。こうした「都合よくツマむ」権利が本当に与えられていいのか?

 

チョットした街頭インタビューにおいてすら、メディアによって、都合のいい言葉の部分だけを取り上げられるという例は、枚挙にいとまがない。それを解消するための第三者組織があるのがある意味その証でもあるだろう。

うまくコンパクトにまとめたいという意思はわかるのだが、意図を持ってある方向へと意見を歪める事も可能なその手法をどうするのか。

 

もちろん調書だって、まとめられる点においては同じだが、最後に読み合せて同意の上、サインして初めて成り立つもの。これすら、取調官への我慢強い変更要求を出し、一つ一つ直していかなければ思うようには修正できない。時間も忍耐力も必要だ。ビデオも、少なくとも同じようにすべきではないのか?そもそも「ツマむ」という権力を与えることは大丈夫なのか?
実は予想以上の大きな力なのではないのか?それを使える側は力として認識していないような顔をして認識していたり。逆に使われる方の大半が、力などということを認識していなかったり。

 

やはり、知らないと取り込まれる。知ったところできちんと対案を出さなければ進められてしまう。沈黙が金…とは限らなさそうだ。