説明的商品名から

すでにコンビニは人々の日々の生活を支える商売になっており、一昔前の、八百屋、肉屋、魚屋といった、その町に必ずある業態のひとつ。昔は商品を売るお店だったけれど、昨今はイートイン形式で、ちょっとした机と椅子を用意することで、短時間に簡便に休憩を取りたい人向けのスペースも用意していたりする。

 

都内のコンビニでは、そんなイートイン形式を持つところがいくつかある。朝から喫茶店というほどでは無いものの、チョット軽食を、といった需要や、店に入るほどでは無い、でも腰掛けて休息が取りたい人向けの施策として機能している。

 

そんなイートインでドリンクを飲んでいたとき。ふと私の周りを見回してみて、似たような傾向に気付いた。周りで購入されている商品、選択される商品の多くが、ブランドとしての商品名がついたものというよりも、その機能性を表す商品名ような、長ったらしい商品が増えていたということ。

例えば、「これ一本で、1日のビタミンの半分が取れる〇〇」や、「腸まで届く〇〇」と言ったような、効能そのものが商品名になっているもの。

もちろん、旧来からのブランド名を冠する「〇〇コーヒー」や「〇〇ヨーグルト」もあるのだが、そうではない会社、いわゆる有名ブランド名をもっていないところや、有名ブランド名を持っているところでも、その商品ブランド名をさらに後押しする形で、「機能」自体をサブネームとしてつけている。

 

もう、時間をかけてブランド名を育てるというところから、直情的?に、説明で訴えかける、それ自体を商品名にしてしまって成り立つ社会に。
要するに、すぐに理解できないこと以外は受け入れられない、スピードを要する社会になったことにより、時間がかかることはすべて排除されるような状況になりつつある。

 

もちろん、明らかに便利になった社会。でも、そうして短期的、即応的にすることで、何か大切なこと、認識できていない肝心なことを失っていて、それがとてつもない大きさではないかと懸念する。