決める事

朝起きて、何を食べようとか、何を飲もうとか。

今日はどの服を着ていこうとか、どの靴を履いていこうとか。

コンビニで、どのおにぎりを買おうとか、いやサンドイッチにしようとか。

どの飲み物がいいだとか、今日は無糖にするかとか。

代金を1000円札で払おうか、いやいや小銭を整理したいとか。

 

考え出せばきりがないくらい、毎日判断に判断を重ねて生きている。でも、もう決めるのは嫌だ…と何もかも放棄する人は多分いない、しできない。それは、判断しない、最初に手に取ったものにする、最初に目についたものにする…なんていう形として、「そういう風にこれから判断すると決めた」ことであり、それすらも判断。だから判断しない事には物事が前に進まなくなる。それが判断。

 

でも決めるって疲れる。意識した瞬間に、次も判断、それも判断、これも決めごと、さらにこっちも決めないと…となってしまうと、気疲れだけで1日が終わることになる。

一説には、着るものを決めるということすら大変だから同じ服を大量に仕入れて、毎日同じタイプのものを着ているCEOなんて言う人もいると聞く。人間の1日の判断、決断の数には限りがあるとかなんとか。

 

いや、たいていの判断が、とるに足らない判断であり、その決めた以外の方を選んだとしても、たぶん大した変化にはなりはしないことがほとんど。だからこそ、ちょっと変えてみたりして変化を楽しんだりする人もいれば、ちょっとでもハズレを選んでしまうことで、昨日の判断以下の結果を良しとしない人もいる。

 

でもそもそも「そこでそれを判断する」ということになるためには、その前提となる何十何百の判断があってこそそこにたどり着いているわけで、それを判断するに至った前段階の判断が変わってくれば、そもそもそこでそれを判断することにはならないであろう「その前提となる判断」があったはずなのだ。

 

そう、そこで一つ決めたことによって、その先は大きく変化する。だからこそ、その一つの決断を重く受け止めて。

 

…と、今日は無糖にするか。