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高齢化のある一つの側面

一部の小売店において、PCのサポート料金が法外な値段であったことが「炎上」していた。拝見したところ、確かに非常に高い値段であり、自分ではこれには申し込まないだろうとも思うし、誰かにお勧めもしかねる値段。
とは言え、同じグレード(?)のサポートを自分でビジネスとして起こすとなったとして、さていくらで実現できるのか?と考えると、かなりの疑問符が頭に浮かぶ。

 

ボランティア作業としてPCを使って趣味の映像を加工したり、年賀状等の印刷をサポートした経験がある。が、これがいかに大変なことか…。 

そもそも、リテラシーがほぼない方に向けて、「そのPCを操作すべき共通事項」のレベルからの説明が必要になるのは、非常に骨が折れる。
さすがに「クリック」などという言葉は少しは浸透した感があるけれど、昨今ではPCのみならず、タブレットなどにおいては「タップ」などという言葉も出始め、それらをどう理解させるのか?という事をきちんと伝えるところがスタートに。
さらに、そうして一度きちんと伝えたことも、使い慣れない/覚えきれない言葉であるため覚えきれず、繰り返し繰り返し説明する必要がある。相手が子供の方がよほど記憶力がよく、どんどん覚えてどんどん進んでいくだけまだいいのにと思うこともしばしばで、高齢者においては、何度も何度も同じことを根気よく丁寧な説明が必要に。忍耐力との勝負。

 

さらに、そういう参加者全員ではないものの、結構な数の方が「何をしたいのかよくわからないけど来た」という方がいる。要するに来たからには楽しませてくれるだろう、という「エンターテインメント期待の方」が少なからずいる。「何かを習いたいための講座」というよりも、「町の井戸端会議のきっかけが、たまたま習う講習会」になっている方もいらっしゃるのだ。
こういうボランティア講座において、「こんなのが作れますよぉ」と「自分が作りたい何かを作れるようになる」ということを「サポート」する事を目指して開催している主催側のイメージと、「参加すると楽しいかも」ということで「出席すれば楽しませてくれる」という期待を持ってくる人との間に、意識の齟齬があるわけで。 

 

となると当然、目的が違う人が集まっていることになる。教わりたい方と、そうでもない話がしたい方と、そして教える助けをしようとして集まっている方と。

 

目的を取り違えると、主催する側も、参加する側も、非常に悲しい結果を生む。そもそも目的自体が正しく伝えられているかということさえもが問題になることもある。

別に高齢化だけではないのだけれど、ただ生きてるだけではもちろん楽しくないでしょう。何のために生きているのか、何をしたいのか、何を実現したいのか?大それたことでなくていい、こんなものが作りたいとか、こんなことができるようになりたいとか、目的の持ち方を意識するしないにかかわらずトレーニングされていない人々が大量に生み出されているとするなら、それ自体が社会の摩擦係数をあげていたりしないんだろうか?