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リスク分散によって削るもの

シン・ゴジラ」がとっても当たっている。これについてはいろんなブログ等々で語られているので置いておくとして、今回はそうした当たる/当てるモノづくりにおけるプロセスを考えてみたい。

 

興業というのは、当たることも当たらない事も当然あり、お金を出す方は投資と考えるところもありつつ、部分的には投機と考える向きもある。

なので作り手によっては、参加者によっては面白くならないかもしれない。…ので、そんなリスクは取れないことが少なくなく。ましてや映画やドラマ制作となると、1社だけでリスクがとりきれない規模の額にもなり、最近は「制作委員会方式」をという手法をよく目にする。要するに、リスクを分散し、その分、儲かった利益も分散しましょうというわけだ。

当然、各社として大きくコケルことは少なくなる。多くの投資家の目で検証され、意見を募らざるを得ないからで、チェックは何度も入るのだから。


…であるがゆえに、その中の誰かひとり、1社でも、「それはまずいですねぇ」と思ったが最後、そのスポンサーの意向に従わざるを得ない状況も出てくる。ステークホルダーが多岐にわたると、逆にこんな、尖ったものを作りにくいリスクをしょい込まざるを得ない。
その結果どのようなものが生まれてくるかというと、尖ったところが丸くなり、面白さがぐっと半減したり、なんかどこにでもありそうな、安全で刺激の少ない、面白みにないものが生まれ出てくる。リスクを避けたいためのリスク分散によって、新たなリスクに苛まれる。

 

それに対して、興行リスクをしょって1社ですべてをしょい込んだ場合。まさに今回の「シン・ゴジラ」がそうだけれど、当たるか当たらないかはある意味大博打。当たれば取り分は大きいが、失敗すれば母屋が傾いてもおかしくないことだってあり得る。
だが、ステークホルダーが少ない分、面白さを削がれることなく、ちょっと過激な事でも説得する相手が少ない分通っていく確率も高い。そして「そこ」が受けると大きく当たる。

 

よって結局、「興行リスクを分散」することによって「面白さ」を削るか、それとも「興行リスクをしょって」でも「作り手の感性を信じて、新しい面白さ」を取るか。
作り手とスポンサーとの信頼関係、また、作り手と受け手との信頼関係、そしてそれらのバランスをどこにとって進めていくのか。
誰かがちょっと「ビビった」だけで、そのバランスはいとも簡単に壊れる可能性が。これはエンターテインメントに限らず、すべてのサービス、商品開発にも言えることなんだろうな。

バランス感覚と、それを貫き通す意思と。