効率化の果て(1/2)

本当に究極の効率化を望むとするなら、すべてが規格化された、すべてが同じものになり、例外を許さない事だろう。だがそれらを提供される側の「人」としてはそれではつまらないのだ。なにか驚きがあり、快楽が欲しい。だからこそ、自分へのインプットには「効率化」を望まず、自分が組織するシステムからのアウトプットは、自らのコストを最小限とするための「効率化」を望む。

この矛盾はどこかで行き詰まる。当然のように無理があるからだ。

 

こんな時に、無理せず伸びている、たゆまず努力している企業は何をしているのか?それは、「一つの価値観ではなく、複数の軸における価値の創造」で対処しているということ。
裏を返せば、「効率化」、もっと極端には「コストカット」としか言わない職場、上司、会社というのは、そもそもその時点で破たんしている。
無限に「効率化」ができるなら、やがては手間や時間はゼロになることになる。が、それはあり得ない。とするなら、どこかで行き詰まるのは明白な事。そんなピークギリギリのところで争うこと自体がばかげているのだ。

 

いかに早く「別の山」に上り変えるか、その別の山を見つけるか。

いやその山を見つける事、だってコストがかかってるんだし。