それは見られてきたこと

何かルール違反をしている人を見かけたら、注意する人がいる。別にそこの責任者でもなんでもなくても、「それ違うよ」と声をかけてくる人。正義感からなのか、当然なのか、人によって同期は違うかもしれないけれど、正しいことを正しい、間違っていることを間違っていると伝え、正すこと。これ自体は素晴らしい行為だと思う。

 

けれど、そうして間違っている行いを見つけたら、その行為を行っている人が「誰であれ」正すように声をかけているか?というと、そうでない人も少なくない。こわもての容姿の人や、そもそも態度が尋常ではない人、以下にもすぐに反抗しそうな人は避け、従順に従ってくれそうな人、常識のありそうな人であれば声をかける。

 

責任のない立場での一般の話なら、これはこれでも構わないかもしれない。
が、これが社会事情にまつわる事、巨悪を暴くべきモノがこれでは、ジワリと社会が腐敗し始めるのも当然。

一言でいうなら、小悪党は叩くが、巨悪は叩かずにスルーする。こんな世の中で気持ちよく過ごせるわけがない。誰が見てもおかしいけれど、こわもてが世を制することになる。

時に「マスゴミ」と揶揄されるマスコミが責務を果たしていないとこうなる。いや、今のマスコミに限ったことではなく、ずっとずっと昔からそうしたところはあったんだろう。でも、それに小さくとも抗い、これではいけない、本当の巨悪を暴かなければという浄化作用が小さくとも働いていた時代は、それはそれで人々はそれなりに静観していた。

けれど、叩きやすい知事は叩き、そうでない人はスルーしたり、巨大な権限を持つ者、自分たちの立場が危うくなるかもしれないところに手を回されそうな人は当たらず触らず…で、どうなるだろう?今に始まったことじゃないんだろう。今そういう人たちは、上の人たちがそうやっているのを見て、そうするのが自分たちの取るべき振る舞いだと学習して来た人。だから、それはずっと見られ続けてきたこと。
でも本当に正しいことは何かと自分で考えれば、本当にするべきことは何かと自分で考えれば、時には抗う必要にかられるかもしれない。
最悪なのは、考えることをやめてしまうこと。すべてが正しいとは限らない。すべて前例踏襲がいいとは限らない。考えなければ、流されるだけ。考えない人の「代え」はたくさんいるのだから。