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AIに切り替えられる

AIに仕事を奪われていくことへの不安がジワリと広がっている。

日本という国は、これまではさまざまな理由で「ロボット」や「AI」の受け入れとしては世界の中でもかなり寛容な国であったはず。であるけれど、それでもこれからの将来を憂いている人が少なくなさそうだ。

たぶん日本において憂いだしたのは、数年前の将棋の電脳戦あたりからではないだろうか。チェスの世界チャンピオンにコンピューターが勝ったのが約20年ほど前。そのチェスよりも数段難しいといわれている将棋でさえ、プロ棋士に勝ち始めたことで、「俺のやってる仕事もいずれ…」と自分に置き換えてイメージし始めたあたりから、ジワリと広がっている不安なのかもしれない。

 

昔、「ターミネーター」という映画があって、今でも時々リバイバルでかかることはある。あれは誤解を恐れずに書くと、スカイネットというシステムが「人間に戦いを挑む」という世界を描いているもの。人間という無駄を排除しようというイメージでできている。もっとさかのぼると、「ウエストワールド」や「未来世界」という映画では、人間と見間違えるほどのロボットが、アミューズメントパークのキャスト役としてガンガン出てくる。

 

置き換えられるかも…という恐怖を抱いている人というのは、今まで「終身雇用」ということでヌクヌクしていただけの人たちなのかもしれない。そもそも事実上終身雇用など破たんしている。すでに企業は、今までのシステムをいかに切り替えて、現状の無駄人員に、ほかの分野で実力を発揮していただくための出口戦略に振り向ける方向で制度やキャリアプランを練りだしている状況。
これを、受け身で待っていてはそれこそ文句も言わず、同じことをずっとやり続けることにたけている、システムやAIに「やられる」だけ。それを「迎え撃ち」にいかなければ、座して死を待つのみとなるのは言うまでもない。

 

今の社会の仕組みでは、そうしてマシンや新システムに切り替えることで、「会社」という法人は効率化し、その法人の株主ばかりが効率化されたことによる利益を享受してきたシステム。

でもこの欠点は、そうして効率化された部分は、その法人、その株主にのみ還元されていたこと。だから結果として労働者は搾取されてきた。

 

人は、究極的には、自分が働かなくても良い世界を考えてきた。ただ、それを享受できるためには、今のところ、それを享受できるポジションに位置しなければならない。それは「単なる労働者ではない」というのが不安の原因だろう。

  

すべての人を大事にすること。使い捨てない事。

システムがそれをカバーしていたのに、それが単なる労働者が見捨てられ始める、ということがいよいよ現実可能な可能性として皆に感じられるようになってきた。

結果、人を大事にするということが個々の人々に担保されずに、「コスト効率」という視点でのみ見られ、切られていく。その結果、社会システム全体がぜい弱化しているところがあるのではないかな。
それゆえに、早く機械やAIに切り替えようとする人々と、それゆえに、自分は切り替えられないように抗おうという人々と。