安さと安定

100円ショップ。ちょっとしたターミナル駅には必ずと言っていいほどにあるだろう。ちょっとした備品なら、コンビニに行くよりもまず先にこちらを、という人もいらっしゃるかもしれない。

いろんな商品があり、これも!あれも!といった驚きの製品が少なくない。が、品数はけっこう多いけれど、それが安定的に供給できているか?というと、モノにもよるのだろうけれど、そうでないものも多々ありそうだ。

その100円ショップグループでの自社開発製品のように、安定供給を貫くものもあるだろうけれど、場合によっては「商品が余ったからこちらで…」とか、「消費期限が近づいているのだが、在庫の量が尋常じゃないのでこちらで…」といった、特別な理由によって売られているモノも。これは、その在庫が切れたら次はいつそれが来るかわからない、いわゆる安定供給製品とは全く別のものだ。

 

そうした、いわゆる訳アリ商品が「常時」安くなっているのが、100円ショップ。もちろん、最近の一般スーパーなども、「訳アリ放出品」などと銘打って、安く出してくるものもあったりする。

 

僕らの生活は、さまざまな商品、サービスで成り立っている。ある商品が一時的に切れたら、代替品でまかなったり、別の商品で急場をしのぐことは普通。けれど、「絶対にこれでなければならない」というこだわりや、場合によっては商売の生命線、人の命に係わるようなものもなくはない。…が、それが峻別されているだろうか?

 

この何年も、日本はデフレ圧力に押さえつけられ、人口減少圧力にさらされ続けている。が、それでも「経済成長」という目標に向けて動くために、昨今は、以前なら決して手を付けなかったところにまで「効率化」を求めていたりする。
が、結果としてそれは、弱者切り捨てになる場合も出ているのではないか?直接的ではないにせよ、間接的に弱いものを痛めつけている状態になっていないか?

 

一部のアンケートでは、アメリカ以上に「弱いものを国がわざわざ助ける必要はない」といった極端な自己責任主義が蔓延し始めている。たぶんこの流れは、よほど大きなインパクトがない限り、静かに国民の間に根付いてしまうだろう。

安さや効率化を求めることで、結果的に「安心」や「安全」を犠牲にしていないか?結果として「安心できない」世になれば、まわりまわって「安くもない」「効率的でもない」社会を生み出すことにはならないのか?何でもかんでも「安くしろ!」って、考え無しに進める事って、危なくないですか?それ、何かと引き換えにしていませんか?