コンビニエントの代償

100円コーヒーがコンビニでヒットしだして約3年半。その昔の100円缶コーヒー感覚で飲んでいらっしゃる方も少なくないのではないかと思う。

 100円で缶コーヒーが飲めたのはそれこそ20年程度前の事。となると、容量の違いはあるけれど、この間のコスト削減努力などは尋常ではない、というのは想像に難くない。

 

コンビニに行けば、たいてい欲しいなと思ったものが準備されていて、この業態なしには生活がありえないほど便利だなと思う今日この頃。だが当然ながら、こうも想像すべきではないか。「こんなに便利な状況を常に維持し続けるための、さまざまなコストや努力はどんなものなのか?」と。

 

システムをくみ上げ、それをずっと運用し続けていることのすごさは、考えれば考えるほどそのすごさが身に染みる。同時に、それを維持し続けている労力はというと、自分ではなかなかできないなというのも想像できるだろう。

ちょっとした小売店での仕事をしたことがある人なら、店頭に商品を切らさず、在庫管理をしながら店を作り続ける難しさは尋常ではない。

 

特に日本人は、その事/サービスに対する対価を想像することが下手な人が多いのではないか?それを「自分でやる」とすると、いくらもらわないと割に合わないか?すら想像しない。もちろん、そういう仕組みを作ることでコスト削減されているのだから、単純に想像しただけの価格ではないだろうけれど、それを話半分ということで半額にしたところで労働力はいくらかかるのか?それを考えて対価はいくらになるのか。自分の仕事代、バイト代を想像してみるといい。そこに至るまでの努力や訓練も含めて想像する…と、日常生活というのが、いかに安く、いかに豊かに設計され、運用されているのかが身にしみてわかってくるのではないか?

 

それが、最近はちょっと立場が変われば「俺が主人だ」とか、昔から誤解されている「お客様は神様なんだからな!」と“神様”たるお客が痛いコメントをしたり。店員も客も当然貴賤はなく、対等であるべき状況のはずなのに、そこに上下関係を持ち込んで、その一時的優位性という幻想を日ごろの鬱憤のはけ口にしようとする。

結局コンビニエントの代償が、このような言葉や対応がまかり通る世界にしかならないのなら、この「利便性」って必要ですか?