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他人事

ここ何週間も、某広告代理店の社員の自殺や労働時間の問題が取り上げられ続けている。パワハラだセクハラだブラック企業だ、労働時間が過少申告されている…という次々に出てくる情報を見て、多くの人々はどう感じているのだろうか?

「あぁ、D通さんひどいねぇ…」

ですか?違うんじゃないですか?

「やっぱりあそこもなんだね。うちも程度は違え…」

と思っている人がほとんど…じゃないんでしょうか?

 

たぶんこれが日本の「すごい」ところでもあり、「最悪」のところじゃないかと思っている。同じ境遇を目にしながら、自分に降りかかってこなかったら「あぁよかった」と事実上の無視を決め込んで、ただ黙々と機能と同じ今日を過ごそうとする。だから大きな暴動は起きない。けれど、大きな変革も起きにくい。昨日と同じ今日が来ること、変化を恐れる民族意識が作られる。

 

力を握っているのは「上層部」、「権力があるところ」だ。そこが変わらない限り、そこが今までと同じ考え、行いをしている限り、下は変えたくても変えられない。

だが、そんな将来「上」になるべき人材を育てているのは、「いま上の人々」。だから、自分たちの間違いに気づき、過去の自分を変革する力がある人でなければ、これからを変える人がなかなか育たない。ある意味での「自己否定」「自分の過去の間違いを認められる」人しか、これからを変えられない。

 

ただ、それは非常につらい作業。日本においては「間違っている」と認めた瞬間、特にそれがポジションが上であればあるほど、多大なバッシングを受けることになる。ここで受ける衝撃やショックは尋常ではない。だから「そう思っていても、行動しない/できない」のがほとんど。だから変わらない、変えられない。自分がそんなおおきな痛手を負いたくないから。

かくして、すべてが他人事になり、自分の頭の上を通り過ぎていくのを待っている人、多数。
極端に言えば、「あぁそれは俺もそうだ!」とみんなが自分ごととして考える社会、組織になれることができれば、みんなが変わっていけることを容認する社会になれば、たぶんより良い方向へと変革するスピードが格段に速まるはず。

昨今、企業や組織で「改革だ!」「変わらなければならない!」と言っている多くが『現場が』という大前提がついていて、それ以外の例えば『上層部が』とか『リーダーが』というのが忘れ去られている現実的状況を目にすると、何とも言えないむなしさすら感じる。

 

「仏の顔も三度」なんて言葉があるくらいなのだから、できれば二度までは許す、認める社会にならないと、自らの間違いを許す社会にならないと、たぶん変われない。
ましてや、これから高齢化していくこの社会で、後になればなるほどそんな痛手を受けたくないだろうに。という自分もまた、年を重ねていく。

 

極端なことを言えばいい、というわけでもなく、真摯に自分を見つめ、悪いところを直していくという行動。

あと1日もすれば、もしかすると地球が変わる変化が起きるかもしれない。起きないかもしれない。