目の前のことは嫌だけど

先日、関西の地方紙?に「マンション内の挨拶をやめることが決まった」という記事がマスメディアやWebなどで話題になっていた。

 

ざっくり略すと、「自分の子供には、知らない人にあいさつされたら逃げるように言っている。だから、マンション内で子供らに声をかけて挨拶するのを禁止してもらいたい。」という住人からの申し出があったのに対して、それに呼応するかのようにおなじ住人である別の方から「確かに、挨拶で声をかけたけれど返事が返ってこずに嫌な思いをしていた。そうしよう。」と決まったのだという。

 

挨拶。言うまでもなくとても重要なもので、声をかけるかどうかは別にして、その視線のかけ方、態度、雰囲気で、安全な人なのかどうなのかを見分ける貴重な情報だ。怪しいことを考えているものは「認知」されることが怖いから、知られたくない、声をかけられたくない。それを促すための行動の一つが挨拶。

昨今の安全事情から考え、不審者が存在するのもわかる。だから挨拶をやめよう…は、あまりに短絡的すぎないだろうか?

 

 

一般論として、小さな子供が/幼児が、目の前の「自分の不快に思う事」を、「いやだぁ」というのは分かる。が、大人はそれを大きな視野から見て、確かに嫌かもしれない…が、でも体に大切なものだから食べなさいとか、そうは言わずに我慢しなさい、などと示唆を与え、子供の行動を是正する。俯瞰的に、「いやだ」と拒否することによるメリットとデメリットを理解し、図った上で行動を是正する。

 

あくまで新聞の記事からの伝聞なので詳細なことは分からないのだが、挨拶をやめるとどうなるのか、やめたことによるメリットと、デメリットとを考えたのだろうか?

 

なにも、誰もが哲学者のように、大学教授のように考えてくれと言うわけではない。が、今の考えを実行したら、しうしたことで、次に何が起こるかくらいは想像してみないだろうか?

短絡的考えは、すぐに答えが出せることが多い代わりに、効果も長続きしないし、副作用が思わぬところから出るものが少なく無いのでは無いだろうか。急いで決めたい、結論付けたいがゆえに、考えの浅い人、その次が見えていない人が増えているのではないかと危惧する。そんな世界になったとたんに、決断が右往左往して、結果的に混乱し、(ここでは)挨拶をやめて得たメリット以上の「デメリット」を生じかねないのではないだろうか?

というくらい、「みんなで相談して決めるということ」「民主主義」というのは、めんどくさく、時間のかかるものなんだよね。

スピードの時代、だけど、それを我慢してでもみんなで進めていくことは、もう大切じゃなくなったんだろうか?

 

めんどくさいけれど、なんとか安心というバランスと

短絡的に決められるけれど、結局また変えないといけないかもしれないことと。