違いを理解する前提

日本人に限らないと思うけれど、カードコレクションとか、フィギュアコレクションとか。バリエーションがたくさんあるものを集めたい、収集したいという欲にかられるものはいろいろある。昨今のポケモンだってその一つだろう。

 

その楽しみの一つは、「皆違う」ということ。一つとして同じものはないという事だから、それぞれにその特徴を理解し、その違いを愛でる。違いこそが特徴であり、違いこそが価値。

 

…のわりに、日本人は?特に「これまでの」日本人は、日本人だからみな同じだと理解している/理解したいと思っているところがあった気がする。私が好きだから君も好きなはず。私がそう思うからみんなもそう思うはず。

 

でもそもそも、「私」は私であり、「あなた」とは違う。違うことによって何らかの違いがあり、違いこそが「価値」のはず。

時々、その違いすら理解せずに、「価値のない人」という扱いを受けたり感じたりする場面もあるようだけれど、それはそもそも「価値ある違い」に気付いていない事の方がほとんどで。

あなたには価値が分からないかも知れないけれど、必ず何かあるはずのもの。探そうとしても見つからないのか、見た目/一瞥しただけでは見つからないのか。

 

前提として「違いを理解する」という事があってこそのそれぞれの価値。だから、違いを理解するつもりがないなら、そもそも価値としては認めるつもりすらない事に。

ただしこれ、送り手側も受け手側も、それぞれが「相手が、違いを明確にせよ」と思っている、相手に委ねている場合、にそうした齟齬が起きやすく。要するに「違いを自分で示さなければならない」のか「違いを見つけてやる」のかというスタンスの違い。互いに相手にやってもらおうと思う同士なら、たぶん早々に決別するだろう。それぞれが、「自分の違い/価値を示そう」と思い、「相手の違い/価値を見つけよう」と思ってはじめて双方に思いが行きかったり。

 

違うものなんですよ、基本。で、そこに価値を見出そうとできるかどうか。たぶん、何らかの価値はあるはずなんですよね、ただそれをいかに使いこなせるかどうかは、そのあとの作戦の立て方次第だったりするんですよ。同じメンバーを使っても、監督が違えば、最下位になったり、優勝したり、ね。