興味がない

それに興味を持ち続ける。それはワクワク、ドキドキを求め続けること。

 

12月!クリスマスだ!もそうだし、子供ならお正月はお年玉!なんてのもそうだろう。次々と楽しいことを求めて、ワクワクを求めて行くこと。

もちろん、商業前提のこの世の中は、各お店が「ワクワク」を作り出し続けるように努力する。であるからこそ、毎日どこかでイベントは打たれるし、近所のスーパーでさえほぼ2週間に一つずつ何らかの催しを開催する。それにより微かであろうと興味を持ってもらい、お店に来てもらい、消費を促したい。

 

けれど、「刺激」はやがて麻痺し始める。あまりに大きな刺激が入り続けるときっと持たないのだろう、刺激に反応しない「慣れ」がやってくる。やがてそれにより生み出される信号は小さくなり、「刺激」として成り立たなくなる。

 

たぶん大人は、「ワクワク」の刺激が欲しいとは思いつづけながらも、それ以外の「ドキドキ」の刺激、もっと言えば負のストレスによる、「うまく行くのかな?この仕事?」とか「ミスしないように注意しなきゃ」の別のドキドキにどっぷりと浸され続けているのがここ10年ではないだろうか。これにより、楽しいことであっても、「ドキドキ」すること自体に疲れていて、結果、消費も落ちがちに。(だから、ゆっくり休みたいんだよねぇ)

 

反対に興味を持たなければ、物理的にそこにあっても見えてはこない、聞こえても意味を理解しない。これは事実上、無いに等しい状態に。「ドキドキ」においても余裕がなければ、興味を持てなくなるし、見えなくなるし。

「だからそれでも目にしてもらうために、露出を増やすんですよ」と広告を山のように打って、音を大きくしたとしても、「目には/耳には入っても、脳には入ってこない」という状況。生まれてませんかね?

 

需要を先食いすると、必ずやどこかで先食いした分が落ち込むことに。継続的につながり続けるためには、「ちょっと足らない」「もう少し欲しいかも」を続けていかないと。それはモノであっても、刺激であっても。

多すぎるのは「身体」に、「脳」にドクですぜ。