欺(あざむ)けないのは

子供は誰かをびっくりさせるのが好きだ。ちょっと隠れていたり、おどけてみたりすることで、相手が驚いたり、喜んだりするのがうれしい。

 

ただそれも年を経るにしたがって、その驚きや欺きを利己的な何かに使う知恵を持ち始める。

誰かを騙そう、欺こうと思えば、それに向けて準備が必要だ。単なる瞬間的なものではなく、システマティックに、「本当はそうで無いこと」を、いかにも「そうであった」かのように、人為的に環境を整備しなければ、いとも簡単にウソはほころびて行く。

であるがゆえに逆説的には、そうして用意周到に準備さえできれば、結構騙すことも可能ではあるだろうということ。

 

しかし、ほぼどれだけ頑張っても騙せないもの、欺けないものがある。

それは「自分」だ。

自己暗示にかける…などという言葉もあるけれど、あれは私の理解では、能力的何かをだましているのではなく、緊張をときほぐす一つの手段。なので、そこまでに積み上げられなかったものが、いきなりできるようになるものではない。

そこまでどれだけ努力したか、どこで手を抜いたか、やるべき事はやれたか、抜かりはないか…。全て「自分」で分かっているし知っている。

 

相対的に誰かと競う競技形式なら、それでも相手の調子が予想以上に悪くて勝てたりする場面もなくはない。

だが、絶対的な値を競う時(xx点以上合格など)の場合は、事前に自分がどれだけやったか、を見せるだけ。自分自身に自分がどれだけ努力できたか、コミットしたかで決まるもの。

 

…とは言うものの、そんな個人での気力を振り絞れないまでに、個人の努力や気力を、仕事に注がねばならない状況があちこちに。結果、仕事では怒られ、絞られ、個人の生活における気力などほとんど残っておらず、と言う人も。

少し前には「自己責任」なんて言葉も取りざたされたけれど、結局都合よく、なんでも個人に押し付けて、公は存続、でも個人は自滅する社会ってあり得ないし。そもそもの根本、基礎がどちらにあるかを考え直すべきだろう。

 

いずれ、誰かが「貧乏でいいじゃないか」と言った宗教でも始めそうな気がするが。

そんな貧乏は目指しはしないが、自分を欺かなくてもいい世界、夢を見て、楽しみに向けて「喜んで努力」できる世界。これからやってくるのだろうか?