言葉があるという事

ある概念があって、それに呼び名がついていないとき、その事象を他人に話したり、共有したりすることはむつかしい。だからそんな時人は、そんな事象に名前を付ける。〇〇法とか、なんとかメソッドとかなんとかかんとか。

こう呼び名がついた瞬間に、そのものに「ハンドル/手すり」がついたかの如く、非常に扱いやすくなる。名前は、そのパッケージされた何かを扱いやすくするハンドルになる。

 

だが、逆に「ハンドル」が先にできているものがある。昨今目についたものでは「女子力」という言葉。定義がきっちりしていない言葉、パッケージとしてあらわす範囲がぼんやりしている言葉は、最近の言い方では「フワッとした」言葉は、使う人がそれぞれに概念をつけ足したり、削ったりして、都合の良いものが流布しだす。

さらに言うと、それ以前の概念からの延長線上でとらえられて、時代の縛りをこうむったりもする。

 

そもそも「言葉」が先にできていることはたぶんなく、それまでの事象を呼び変えて今風に扱えるようにしたい、というものが少なくないのが昨今。だから、言葉がそこに先にあるという事は、それでパッケージ化したい何かがあるということ。そしてそこに、シビアな差別や区別の状況が入る余地があればあるほど、そこはその言葉を使う側の都合のよさが優先されたりする。

ハンドルができることで取り回しがしやすくなるけれど、ハンドルができることで振り回す人も出てくると言うことに。ましてや、そのグループ、組織、団体、国のトップに立つ人においては。