謝ること

悪ければ、謝ればいい。

悪いと認識できれば、謝る。 

ただ、何にも迷惑を被っていない人でも、「悪い」ことを見つけたら、その見つけた人に謝らせようとする人がいる。そこに向けて必ず謝ることが前提、というわけではないでしょ。

 

特にこれだけネット環境、誰もが自分の意見をほぼ匿名の形で放出できる世の中において、ストレスフルのこの世の中は、ある意味、謝らせることに力を入れているようにすら見える。

 

きちんと謝る人が少ないからそんな力が増長したのか、そんな力が増長しているから謝ることができなくなってきているのか。ある意味での鶏と卵の関係でもあるだろう。

そうした社会の雰囲気、空気ができあがった結果、謝ることを恐れ、間違わないように縮こまる。

結果的に、ちょっとした間違えさえ許されない、飛躍できない世界が広がりつつありませんか。

 

もちろん、そうした理不尽に打ち勝てる強靭な心の持ち主もいるだろう。

そんな人を減らした方がいいのか。いやでも悪いことなんだからもっと増えれば、より良いもっといい世界になるのか。実は「そうした世界そのもの」が、我々人類に条件を突き付けているようにすら見える。

 

少なくとも、これまでの偉人や、本当に人間的に素晴らしい人の多くは、腰が低く、ちょっとしたことでさえ気遣いを見せていた。でも今、常識以上に強引に謝らせようとする力を感じる。それによってあやまりづらくなり、「謝る」ということで「気遣う」ことが奪われているのが最大の問題なのかも。